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お亀石古墳 現地説明会 資料

|説明|トレンチ配置図土層断面図

富田林市教育委員会 2002年2月10日(日)

■はじめに

 富田林市教育委員会では、新堂廃寺(しんどうはいじ)・オガンジ池瓦窯・お亀石古墳の国の史跡指定を目的とする5カ年計画の範囲確認調査を行ってきました。その最終年となる平成13年度は、お亀石古墳の墳形・墳丘規模を確認する調査を実施しました。
 お亀石古墳は、遺体を収める内部構造としては横口式石槨(よこぐちしきせきかく)を採用しています。その形態は、家形石棺に入り口を設けて石槨として利用しており、また、その石榔の周囲には瓦が積み上げられているという、きわめて特殊な構造をもっていることから、考古学史的にも注目を集めてきた古墳でした。しかしながら、古墳の形状・大きさについては、発堀調査による確認が行われないままに、直径約15mの円墳として認識されてきました。
 今回は、その不確実な点を明らかにするために、墳丘に9ケ所の調査区(トレンチ)を設定し、発掘調査を行いました。

■位置と環境

 お亀石古墳は、羽曳野丘陵上の富田林市大字中野に位置しています。古墳はその丘陵が南東に突出した尾根上、標高約98mの位置に築かれています.丘陵東側の平地との比高は約50mあり、現在は古墳上から東方の平地部が一望できますが、東側の現在グラウンドになっている場所に本来はもう一つの尾根が延びており、視界がさえぎられる形になっていました。なぜこのような場所に古墳が築かれたのでしょうか。
 北側、東側、西側を山に囲まれ、前方の南側に水が流れる谷が位置する地形は、「四神相応(ししんそうおう)の地」として、風水思想に基づいて選ばれたと思われます。このような地理的な選択は、7世紀の古墳にしばしば行われています。
 古墳から南東方向にあたる平地部には、飛鳥時代に創建された南河内最古の古代寺院である新堂廃寺が位置しており、その間にある谷筋には、寺院に供給する瓦を焼いた瓦窯(オガンジ池瓦窯)があることが確認されています。同じ羽曳野丘陵では、お亀石古墳の北側に、飛鳥時代の古墳である宮前山古墳が位置しています。このように、飛鳥時代の景観を復元する上で非常に重要である地域といえます。

■調査成果

墳丘
 調査の結果、お亀石古墳の墳丘は原形をよくとどめているとは言えません。大部分の調査区において、中世、主に室町時代に墳丘周囲を改変していることがわかりました。
 しかしながら、墳丘東側の調査区(第7トレンチ)と北東側の調査区(第8トレンチ)において、古墳築造時の墳丘盛土が裾部まで残っていることが確認されました。その裾部が石槨の中心から10.5mの位置にあたることから、古墳の東西幅を21mに復元できます。また、この盛土が南北方向に直線的に伸びることが確認できたため、お亀石古墳が一辺を21mとする方墳であることが復元できました。
 墳丘盛土は、西側の調査区(第3トレンチ)で最もよく観察できました。盛土は、丘陵の原地形上に、墳丘の形状を整えるために削った土を利用して行われています。その盛土の土層断面を観察したところ、20cmから30cmの間隔で粘土を多量に混ぜた土を水平に挟んで盛土を安定させるという工夫が確認できました。
 さらに、墳丘の東側と南側には、丘陵を削った平坦な面が形成されています。しかしながら、今回の調査では、この平坦面が墳丘にどのような形で接続するのかを明らかにすることはできませんでした。
 なお、葺石(ふきいし)・貼石(はりいし)などの外部施設は確認できませんでした。
掘り込み施設
 北側調査区(第1トレンチ)・東側調査区(第7トレンチ)で、石槨を築くための掘り込みが確認できました。掘り込みは、石槨の北端から約3.7m、東端から約2.9mの地点から行われています。掘り込みを埋めた土は、盛土と同様の土を使用しています。
閉塞石(へいそくせき)
 墳丘の南西側に、10cmから40cm程度の大きさの川原石が100点ほど散らばっていることが確認されました。この石は本来横口式石槨の閉塞石として使用されていたものと考えられ、古墳が盗掘された際にばら撒かれたものと想像できます。お亀石古墳では、従来閉塞石の存在は確認されていませんでしたので、重要な発見といえます。
出土遺物
 古墳に関係すると考えられる遺物については、瓦片・須恵器片などがあります。すべてが表土や墳丘から流失した土から出土しているものです。については、過去の調査で石槨の周囲に平瓦が積み上げられていたことが確認されていますので、出土したものの中のいくつかは石槨周囲の構造物であった可能性が高いといえます。しかしながら、奈良時代以降の瓦片も出土しています。須恵器には、蓋杯(ふたつき)(かめ)があります。その特徴から7世紀前半中頃のものと考えられます。お亀石古墳から時期を推定しうる資料が得られたのは初めてであり、古墳の築造年代を知る上で貴重な資料となります。

■まとめ

 今回の調査で、今まで不確実だったお亀石古墳の墳形・墳丘規模の復元がある程度可能になりました。また、古墳の時期を推定できる貴重な資料を得ることもできました。ここではまとめにかえて、古墳に葬られたのがどのような人物であったのかに追ってみます。
 お亀石古墳は、南河内における飛鳥時代(7世紀前半中頃)の古墳として、その卓越した石槨の規模から見ると、相当な有力者であったことがうかがわれます。また、石槨周囲の瓦積みの存在から、近接する新堂廃寺の創建者であると考えられます。丘陵上にこのような大規模な古墳を築造することができ、古代寺院を建立することができる人物としては、蘇我氏と深い関係がある人物とみなすのが妥当であると思われます。古墳の形状が方墳であることもそのことを裏付けると考えられます。

用語説明

横口式石槨 羨道と広い玄室から構成される横穴式石室に対し、棺や遺体を収める空間が非常に狭いという特徴があります。その形態にはさまざまなバリエーションがあります。

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