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闘鶏山古墳(第1次調査)

説明文調査位置図出土土器(図)

高槻市教育委員会
平成14年6月22日、23日

調査地  :高槻市氷室町六丁目1番一30他
調査面積 :約183平方メートル
調査期間 :平成14年4月8日〜現在継続中
調査主体 :高槻市教育委員会 文化財課 埋蔵文化財調査センター
調査担当者:高橋公一

1.はじめに
 闘鶏山(つげやま)古墳は、淀川北岸地域に展開する三島古墳群のなかにあって、極めて良好な状態を保つ古墳時代前期(4世紀前半)の前方後円墳です。古墳は奈佐原丘陵先端の尾根筋の標高84mの地点にほぼ南向きに築造されています。闘鶏の名称は、『日本書紀』の仁徳62年の記事にある「闘鶏野氷室」に由来します。いまも古墳のすぐ南側には「闘鶏野神社」が鎮座し、丘陵の裾野には氷室の集落があり、古代のツゲノ遺跡がひろがっています。
 高槻市教育委員会では、この貴重な闘鶏山古墳の恒久的保存を図るため、確認調査を計画的に実施していきます。
 今回の調査は、古墳の規模確認等を目的に実施したものです。また調査の実施にあたり、奈良文化財研究所の協力を得、ファイパースコープ及び地中レーダー探査による埋葬施設の調査をあわせておこないました。

2.調査でみつかったもの
(墳丘)
 古墳は全長86.4m、後円部の直径約60m、後円部と前方部の比高差4.5mを測ります。後円部は2段ないし3段、前方部は2段に築成され、外表には葺石をほどこしています。埴輪をめぐらさず、テラス面の幅がl.2m前後と狭いことは本古墳の特徴のひとつです。
 後円部及び前方部に設けた各トレンチからは人頭大の石を並べた裾石列とともに、多数の拳大の葺石がみつかっています。墳丘の傾斜角度は、おおむね20度〜25度と緩やかになっていますが、上段の裾部では35度〜40度前後と比較的急な斜面になっています。
 後円部西側のトレンチ3からは葬送儀礼に伴う祭祀用の丹塗りの二重口縁壷形土器、また前方部西側のトレンチ7からも土師器の壷などが出土しています。

(埋葬施設等)
 埋葬施設は後円部で2基の竪穴式石室を確認しました。ともに後世の撹乱を受けず埋葬当時のままに保存されてきた、完全未盗掘の埋葬施設です。中央部にある第1主体の石室は古墳の主軸と平行に設定されたもので、墳頂から天井石までは約2mとかなり深く、厚さ約10〜15cmの粘土で被覆し、密封していました。また側壁の持送りが急角度であることもわかりました。天井石や側壁を構築する石材は徳島県吉野川流域産の緑泥片岩が主体です。棺は前期古墳に一般的な割竹形木棺で、遺骸は頭を北側に向けて葬られていました。朱が付着した頭蓋骨とともに、三角縁神獣鏡2面、方格規矩四神鏡1面、石製腕飾り(鍬形石)1点、鉄刀などの副葬品が確認されました。(写真を別ウィンドウに表示)
 第2主体は第1主体のすぐ西側に平行して設けられ、墳頂から天井石までの探さは約1mとやや浅いところにある追葬時の埋葬施設です。石材は緑泥片岩を多用し、少量の石英斑岩を含みます。棺は割竹形木棺で、保存状態は極めて良好です。(写真を別ウィンドウに表示)

(土壇状遺構)
 闘鶏山古墳の前方部前面に一辺約12m四方、高さ約2mの方形を呈する土壇がみつかりました。トレンチ調査の結果、幅1.3m、深さ0.8mの土坑状の遺構を検出しました。土壁周辺の今回の調査では遺物が検出されず、遺構の時期等は判然としませんが、闘鶏山古墳の造営や祭祀にかかわるものと考えられます。

3.調査でわかったこと
 闘鶏山古墳は幅の狭い急峻な尾根上に築くという前期古墳の特徴が典型的に示され、地形・環境を含めた古墳の立地や兆域、古墳の正面観についての在り方が顕著にうかがえる希有な事例です。なおかつ東南側の平野部に開かれた谷部は、被葬者が住まっていた集落から古墳へ至る墓道をも包合し、古墳の選地と当時の集落とのかかわりを具体的に把握できる貴重な事例となります。
 副葬品にみられる三角縁神獣鏡や方格規矩四神鏡は、いずれも中国からもたらされたものとみられ、闘鶏山古墳の被葬者は大和王権と政治的に深いつながりをもちながら、三島を統治していた人物であったと考えられます。
 三島古墳群における首長墓は、邪馬台国時代の安満宮山古墳(3世紀中頃)からはじまり、古墳時代初期の岡本山古墳(3世紀後半)、弁天山古墳(3世紀末〜4世紀初頭)へと変転していきます。今回、確認された闘鶏山古墳(4世紀前半)の存在は、王権がその後の弁天山Cl号墳(4世紀中頃〜後半)から郡家車塚古墳(4世紀末)へ引き継がれたことを明確にしました。とりわけ蹄鶏山古墳が立地する丘陵は、西方に展開する安威川流域まで見通す位置にあって、あらたな地域支配の拡大とともに、王権そのものの伸長がうかがえます。やがてこの三島の王権は、新池埴輪製作遺跡(5世紀中頃〜6世紀中頃)と太田茶臼山古墳(現継体陵・5世紀中頃)の造営に象徴されるように、大和王権との結び付きを一層強固なものとし、今城塚古墳(6世紀前半)の段階では全国統治の頂点に立つという歴史的な展開をみせることになります。
 さらに闘鶏山古墳の完全な遺存状態にある埋葬施設の発見は、前期古墳における葬送儀礼の復元において極めて重要な資料となるものです。古墳の立地や形状からは、古墳時代前期における王墓の在り方・環境を探究するうえで貴重な事例といえ、全国的にも、学術的にも、とくに重要な位置を占めるものと考えられます。

説明文調査位置図出土土器(図)

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