アカハゲ古墳


アカハゲ・塚廻二古墳の横口式石榔と副葬品

平成16年2月28日
北野耕平

气Aカハゲ古墳

1 今年度、大阪府教育委員会によるアカハゲ古墳を中心とした墳丘の全体調査で、南側の谷に向かって方形の広い三段築成の構造をもつことか明らかとなりました。北側に位置して横口式石榔をもつ最も高い主丘から傾斜に従って段築を設け、斜面には貼石を施している手法など注目すべきものがあります。平成14年度のシショツカ古墳が東西約34m、南北約26mの三段築成であったこと、またアカハゲ古墳東方の塚廻古墳にも、今後の調査によって規模の大きな墳丘の存在が期待されます。これらの新事実から河南町加納、平石にかけて、南側の谷底を東西に走る墓道に面して3ないし4基の後期末〜終末期の巨大な方墳が、有力氏族の墓域を形成していたと判明したのは大きな成果です。

2 今回はアカハゲ古墳の内部主体をなす石榔の調査は実施されませんでしたので、墳丘調査の現地説明会の補助として、昭和40年にアカハゲ古墳調査会が実施した当時の状況を参考としてお話することにいたします。なお併せて、昭和54年に行った塚廻古墳の石榔と出土品もそれぞれ共通するところが多いので、紹介します。

写真:アカハゲ古墳の羨道部から見た前室と奥室。手前の前室床面は榛原石の敷石

1 アカハゲ古墳の羨道部から見た前室と奥室。手前の前室床面は榛原石の敷石

写真:アカハゲ古墳の奥室前景。床石上の中央に漆喰の痕跡が認められる。

2 アカハゲ古墳の奥室前景。床石上の中央に漆喰の痕跡が認められる。

3 アカハゲ古墳の内部構造は南に向かって開口する横口式石榔で、石榔の中軸線は磁北に対して13度東に偏しています。石榔の実測図は本日大阪府教育委員会で作成されました現地説明会に収載されています。奥室・前室・羨道部の構造からなり、奥室は天井石、両側壁、奥壁、床石の5枚の大きな花崗岩切石を組み合わせています。内法の長さ2.3m、幅1.5m、高さ1.2mの大きさです。奥室入口部分の加工状況からみて、築造当初は奥室と前室との間を仕切る扉石かあったと推測できますが、調査当時は残存していませんでした。なお塚廻古墳にはこの扉石が残っていました。

4 奥室には中央に一人の遺体を安置したらしく、床面の真中に南北方向に長さ186cm、幅66cmの長方形に漆喰を塗った痕跡かあり、恐らくこの範囲に榛原石の棺台を構築し、その上に漆塗籠棺を安置していたと推測しています。調査当時も室内は盗掘されていて床面には榛原石片と若干の漆塗寵棺の小片しか残っていませんでした。

5 前室は長さ約3.4m、幅約1.8m、高さ約1.5mの平面長方形をなす広い石室です。東西両壁に各2個、天井にも2個の花崗岩切石を用い、いずれも方形で内壁面を平滑に仕上げています。中でも東壁の北側の切石が最も大きく横幅が2.2mもあります。西壁の北側切石の表面には間隔をおいて2条の擦過痕が曲線をなして残っていて、奥室の扉石が前室側に倒れたことを示しています。

前室の床面には全体に榛原石が敷きつめられていたらしく、約3分の1が原状を留めていました。
榛原石は68×50cm、70×28cmと大きさはさまざまですが、いずれも丁寧に長方形に加工していて、厚さは4〜5cmあります。

6 本来奥室にあって盗掘のさい掻きだされたと見られる遺物は、前室入口の東南隅に集中して残存しました。比較的大きな漆塗籠棺の破片が重なり合い、その間にガラス製偏平管玉が完形品、破片合わせて30個以上出土しました。このガラス管玉は長さ39.1〜26.1mm、幅16.8〜13.2mm、厚さ9.9〜7.1mmの大きさで重さは22.3〜13.9gあります。

珍しいものとしては黄褐釉という二彩をかけた陶硯の破片があります。蓋・身・脚の部分の破片が1個ずつしかありませんが、黄褐釉の資料としては最も古いものです。その他の副葬品として金属製品や土器類などは全く残存していませんでした。

下の写真は遺物の主要な残存状況を示したもので、中央から左右にかけて平らな籠目状の破片が漆塗寵棺です。棺の外側は黒い漆の生地のままで、内側は真っ赤な朱彩が施されていました。なお写真の右下に細長く写っているのは、榛原石を立てた前室の仕切り石です。

写真:アカハゲ古墳の遺物出土状態。漆塗籠棺片とガラス製管玉など

3 アカハゲ古墳の遺物出土状態。漆塗籠棺片とガラス製管玉など。

写真:アカハゲ古墳出土のガラス製偏平管玉

4 アカハゲ古墳出土のガラス製偏平管玉(上は原質、下は白色に変質)

7 羨道部は幅1.55mで長さは4m余りあり、東西両側石とも3石で天井石は奥半部に2石を架構しています。側石は入口に向かって低くなり、入口の幅は広がって約1.8mあります。入口の前半部は長さ約2m余りの範囲に人頭大の丸石を積んで閉塞していました。本来この閉塞石は石榔の入口全体に積み上げられていたと考えられますが、調査当時は上半部を失っていました。この閉塞石は前面が水田のため解体せず、将来の調査に待つことにしました。今後の調査で須恵器など供献土器が出土すれば、アカハゲ古墳の築造年代にさらに有力な手掛かりが得られるものと期待しています。私達石榔調査会としての現在の見解は7世紀の中葉です。

塚廻古墳

1 塚廻古墳はアカハゲ古墳の東北東約170mに位置し、加納一平石の道路のすぐ南側に主丘があり
ます。畦畔の状況からすると東西60m余りの墓域が予測されますので、今後の調査によってシシヨツカ、アカハゲ両古墳と共通した規模の大きな方墳となることが期待されます。

2 昭和54年3月に横口式石榔内部のみを調査、実測しました。石榔は奥室・前室・羨道からなりますが、羨道は未調査です。石榔の残存全長は約7.65m、この中、奥室は長さ2.4m、幅、高さともに1.32mの大きさで、天井・両壁・奥壁・床がそれぞれ1石ずつの花崗岩切石ですが、とくに床石は大きくて前室へ1.3mも突出していました。

写真:塚廻古墳の前室内部と奥室前面の扉石遺存状況

5  塚廻古墳の前室内部と奥室前面の扉石遺存状況

3 扉石は高さ約1.5m、幅約1.6m、厚さ25cmの方形の巨大な板石です。板石は花崗岩ではなく二上山西方の寺山から産出する寺山青石(石英安山岩)を用いています。写真で明らかなように右上隅に横に細長く盗掘孔がありましたが、扉石下縁から約1mの高さの盗掘孔の隅に接して直径8cm余の円孔が穿たれていて、祭祀用か扉の開閉用の目的を持つものと考えられます。

4 奥室は撹乱されていましたが漆塗蓄籠棺片と緑釉をかけた板状土製品片とが榛原石と共にあり、おそらく奥室中央に榛原石で低い棺台を設けて、上に長方形箱形の緑釉を施した土製の受台を据え、内部に漆塗籠棺に爽紵の蓋をして安置した単棺葬の墓室であったと判断しています。

5 緑釉受台(棺台)は奥室と前室から沢山の破片が出ましたが、苦心して復原した富賀 肇氏の成果によると長さ約1.9m、幅約72cm、高さ約21cmの長方形をした大きさとなりました。緑柚は外側面と内面とにありましたか底面にはなかったので、使用にあたっては上部が凹となる受台として漆塗籠棺の外容器であったと判断します。奈良県香芝市平野の平野2号噴から土師質の同形受台が出土していて、同市二上山博物館の下大迫幹洋氏は奈良県竜田御坊山3号墳の陶棺身部からの系譜を考えています。

6 前室は長さ約4.7m、幅、高さともに約1.6mあります。両壁と天井はいずれも3個ずつ方形に加工し、表面を平滑にした花崗岩切石を使用しています。床面は地山上に榛原石を2枚重ねに敷きつめてあり、入口側に約半分が原状を保っていました。閉塞石は前室入口を一部覆って羨道部にかけて積み上げられていましたが、水田の維持のため解体調査せず埋め戻しました。

7 遺物は前室の奥に盗掘時掻き出した状態で散布していました。金製コイル状金具7個、金糸残欠10本、金銅金具片、七宝飾銀製刀子飾金具2個の他、ガラス管玉、ガラス丸玉、竜文金象嵌大刀の一群の破片があり、竜文と飛雲文をィ線透過撮影によって確認しました。

8 この古噴の年代は石槨構造から見ると7世紀中葉を下がりませんが、緑釉の棺受台の存在から慎重な意見もあります。今後閉塞石の調査によって供献土器が発見されるまで、あらゆる角度からの検討を試みて決定したいと考えています。

9 終末期古墳の論議を高めるために、平石から石川を介した左岸の羽曳野丘陵上にある富田林市のお亀石古墳の実測図を参考として掲げて置きます。7世紀前半の終末期古墳として近つ飛鳥の地域の多様性を検討する資料として頂ければ幸いです。

お亀石古墳の石棺式横口石槨実測図

6 お亀石古墳の石棺式横口石槨実測図

※お亀石古墳の2002年の現説資料はこちら