小阪合遺跡第40次調査

小阪合(こざかあい)遺跡第40次調査
2006年2月11日(土)
(財)八尾市文化財調査研究会

1.はじめに

小阪合遺跡は八尾市のほぼ中央に位置し、地理的には旧大和川の主流である長瀬川と玉串川などの河川によって運ばれた土砂で形成された沖積地上に立地します。当遺跡は、昭和30年に今回の調査地の南側(第1図印)で実施された大阪府営住宅建設工事中に、弥生時代〜鎌倉時代にかけての遺物が多量に見つかったことが発見の契機となりました。その後、昭和56年から当遺跡内で区画整理事業が施工されることになり、大阪府教育委員会、八尾市教育委員会、当研究会によって多次にわたる調査が行われました。その結果、弥生時代中期〜近世に至る遺跡であることがわかりました。

今回の調査地の北側においては、平成9〜10年度の2箇年にわたり、大阪府文化財センターにより八尾団地建替えに伴う調査が行われています(第2図上)。その結果、弥生〜鎌倉時代の多数の遺構・遺物が見つかりました。特に奈良〜平安時代にかけての河川跡から和同開弥をはじめとする皇朝銭が約70枚のほか、墨書土器、瓦、石製品など多数の遺物とともに牛や馬の遺体も出土しました。この河川は、ある時は水辺の祭祀を執り行う場、また、ある時は土器の廃棄場として利用されていたものと考えられます。

今回の調査は病院建設に伴うもので、調査面積約5,200平米を測ります(第2図下)。調査の結果、現地表(海抜8.Om前後)から0.5〜1.Om掘ったところで鎌倉時代〜近代にかけての耕作地、さらにそれより0.5m前後下層において奈良〜平安時代と古墳時代前期の遺構・遺物を検出しました。

第1図 調査地と周辺図(S=1/5000)

第1図 調査地と周辺図(S=1/5000)

第2図 検出遺構略図

第2図 検出遺構略図

2.調査の成果

【鎌倉時代〜近代】

調査地のほぼ全域で耕作に伴うたくさんの小溝と数基の潅漑用井戸が見つかりました。また、耕作構ではなく、区画溝と思われる溝の底部から、平安時代末の瓦器椀がきわん4個が完全な形で折り重なるようにして出土しました。当地一帯では鎌倉時代以降から近年の宅地開発以前まで、農耕地として土地利用されてきたことがわかりました。また、調査地の東端部では、室町時代の石組み井戸と素焼きの井戸側を使用した井戸(2基)が見つかりました。石組み井戸は、曲物の井戸側の上に径20cm前後の石を数段積み重ねられたものでした。一方の素焼きの井戸は曲物の上に径、高さともに50cm前後の円筒形をした素焼きの井戸側が積まれていました。これらの2基の井戸については他の調査例とその構造から、農耕に伴う潅漑用ではなく、居住域に伴うものであることが考えられます。

【奈良〜平安時代】

調査地の西部において、弓なりに伸びる奈良時代(8世紀)の河川とそれを切る南北方向の奈良時代(8世紀)〜平安時代前期(9世紀)の2条の河川が見つかりました。南北方向に伸びる河川の検出規模は、南北長約80m、東西幅10〜15mを測ります。本河川からは和同開弥をはじめとする皇朝十二銭が23枚、墨書(文字・記号・人面)のある土器、すずり□帯かたい鉄斧てっぶかま横櫛よこぐしといった遺物のほか、動物の骨が出土しました。これらの遺物は「はらい」や「祈雨あまごい」といった律令期の「水辺祭祀」に伴うものと考えられます。この河川は本調査地の北側の調査で検出された同時期の河川と繋がるものと思われ、今回の調査によってさらに南に伸びていたことが明らかとなりました。そして、奈良〜平安時代前期にかけて祭祀が執り行われていたこともわかりました。とくに、検出例の少ない平安時代における水辺の祭祀については、当時の様子を知る上で貴重な成果であると言えます。また、当時の居住域については、北側の調査から本河川の西側に広がっているものと思われます。一方、本河川に切られる奈良時代の河川は幅5〜8mであり、その河川底が逆凸状になるところから、人為的に掘削された可能性が考えられます。

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【古墳時代前期】

≪河川1〜4≫

調査地の中央では、河川1⇒3の順序で埋まった3時期以上の旧大和川の支流(子阪合分流路」)が見つかりました。そして、河川1・2の西岸では廃棄された壷、甕、高杯、鉢等の膨大な量の土器類が出土しました。その土器類のなかには吉備や山陰といった地方産のものが含まれており、当時に地域間交流のあったことを示しています。また、河川1の西側においては、船材を井戸側に転用した井戸や竪穴住居(たてあなじゅうきょ)、土坑、溝がみつかり、当地点が集落の東縁部にあたることがわかりました。それに比べ河川3は遺物量こそ少ないですが、河川1・2と同様に西岸に沿って廃棄された壷や甕が出土しています。さらに西岸の中央付近では、数本の杭が打ち込まれた護岸施設が見つかりました。

≪河川4≫

調査地の東端部で河川の西岸と、その岸辺上でミニチュア土器や小型の壷、甕類が多量に見つかりました。河川の東岸については調査地のさらに東側へ広がるもので、検出できた部分は、長さ約46m、幅約5mを測ります。ミニチュア土器はすべて「手づくね」によるもので、径3〜4cmほどの小さなものです。出土量は全体で20個前後を数え、数箇所に分かれて小型の壷や甕と一緒に置かれた状況で出土しました。これらの遺物は出土状況から水に関わる何らかの祭祀と考えられ、当時のままの状況で発見されたことはたいへん貴重であると言えます。