野田地区遺跡 発掘調査報告会

日時2006年8月5日(土)
会場きびドーム
主催(財)和歌山県文化財センター
後援有田川町教育委員会
写真:段丘上の調査区(II区)
段丘上の調査区(II区)
写真:竪穴住居
竪穴住居

和歌山県文化財センターでは西日本高速道路株式会社より委託を受けて、5月から7月にかけて有田川町野田に所在する野田地区遺跡の発掘調査を実施してきました。調査をした場所は河岸段丘上から沖積地にかけての部分で、微高地となる河岸段丘上(II区)では弥生時代後期の竪穴住居や鎌倉時代の溝などを検出しました。最も北側の調査区・I区は段丘に接する沖積地で、古墳時代前期や平安時代から室町時代にかけての溝を6条検出しました。これらは標高10mから12.4mまでの間を流れては埋まり、流れては埋まりしていたもので、江戸時代以降、この場所は水田となっています。現在の地面の高さが標高約13.8mですから、古墳時代から現在までは実に4mの堆積があったことになります。低湿地にある溝と言うこともあって遺物が密封された状態になっており、面積が約92m2と狭いにもかかわらず残りの良い土器類や木製品が多量に出土しました。ちょうど昔のタイムカプセルと言えるでしょう。

野田地区遺跡は既往の高速道路の建設に伴い1980年度に調査され、遺跡の性格を把握する多くの資料が見つかっています。この時の調査では沖積地で古墳時代前期の溝が3条、平安時代の溝が4条、鎌倉時代の溝が2条、室町時代の溝が1条検出されています。特筆すべき遺物としては古墳時代前期の陶質土器や建築部材、平安時代の祭祀に使った人形(ひとがた)や斎串(いぐし)、鎌倉時代の仏教関係の遺物である笹塔婆(ささとうば)や位牌(いはい)などがあります。


写真:沖積地の調査区(I区)
沖積地の調査区(I区)
写真:撃(からすき)出土状態
撃(からすき)出土状態

㈵区は1980年度の調査区の東に接し、前回検出した10条の溝の延長部分に相当し、ほぼ1箇所にすべての溝が重なっています。今回、6条の溝しか検出できなかったのは溝の流れが重なることから、後の溝によって削り取られて消滅した溝があるからだと考えられます。

今回検出した溝のうちわけは室町時代のものが1条、鎌倉時代のものが2条、平安時代のものが2条、古墳時代のものが1条です。このうち現在の地面より2.5m下で見つかった平安時代中期の溝からは犂(からすき)が2点出土しました。この溝はほぼ南北方向に延び、幅が約6m、深さが約1mで、調査区内で長さ約12mを確認しています。犂2点は溝の底付近で約3mの間隔をあけて出土しています。一緒に出土した土器からこれらは11世紀前半代のものであると考えられます。

犂は戦後、耕運機が普及するまで使われていた田を耕す道具で、古代よりほとんど形を変えずに伝わっています。野田地区遺跡から出土した犂は2点とも犂床(りしょう)と犂柄(りへい)を一木で作り出した長床犂(ちょうしょうすき)で、鉄製の犂先(すきさき)と犂(すき)へらを装着して使ったものです。犂先の形態などから掘り起こした土は進行方向に向って左側に耕転したことが分かります。古代から中世にかけての犂は、西日本を中心にこれまで十数例確認されていますが、県下では初の出土となります。

このほか、古墳時代前期の溝からは建築部材や机や椅子の部材などが多くの土器とともに出土しています。

写真:古墳時代前期の建築部材
古墳時代前期の建築部材

野田地区遺跡から出土する遺物から周辺に存在した集落の様相を窺うと、古墳時代前期・や平安時代は一般の農村集落ではなく、有力者が近くに住んでいたことが想像できます。平安時代の人形の出土は、近くに都と直結した人物がいたことを窺うものです。古代文書から9世紀には当地に郡司として「紀」を姓にもつ人物がいたことが分かっており、同じ文書に「野田大溝」の地名もでてくることなどからも関連が注目されます。

鎌倉時代の末頃には仏教関係の遺物が出土するなど、野田の宝篋印塔(ほうきょういんとう)や観音寺との関係を想定することができます。

※上記写真は(財)和歌山県文化財センター様からのご提供です。