平安京右京六条四坊八町・西京極遺跡 現地説明会

平安京右京六条四坊八町・西京極遺跡 現地説明会資料

財団法人京都市埋蔵文化財研究所
2006年8月26日

遺跡の概要

調査地は、平安京右京六条四坊八町と弥生時代から奈良時代の集落跡とされる西京極遺跡の北辺に位置しています。西京極遺跡は、旧天神川と西小路通付近に想定される旧河川に挟まれた微高地に形成された集落跡で、南北約1km、東西約400mの範囲におよんでいます。これまでの調査で、弥生時代の竪穴住居や方形周溝墓、古墳時代の竪穴住居や溝、奈良時代の掘立柱建物がみつかっています。さらに縄文時代に遡る遺構・遺物も発見されており、長い期間にわたって人が生活した痕跡のうかがえる安定した土地であったと考えられます。

また、西京極遺跡の北東で今年6月に当研究所が実施した右京五条三坊十四町の調査でも弥生時代の方形周溝墓がみつかり、さらに遺跡の範囲が拡がる可能性があります。

調査位置図

今回の調査

今回の調査では、平安時代前期の遺構と古墳・奈良時代の遺構が同じ面でみつかりました。長らく水田であったため、良好な状態で遺構が残っていました。

平安時代前期の遺構には、南北3間×東西2間で東側に庇の付く掘立柱建物と南北方向の柵があります。

奈良時代の遺構としては、竪穴住居3棟とそれに先行する南北3間×東西2間の総柱建物がみつかりました。竪穴住居83・145・148はほぼ正方位を向き、一辺4mの隅丸方形の平面形をしています。

古墳時代の遺構には、竪穴住居が5棟あります。中期から後期のもので方位にしたがっていません。中でも竪穴住居149は、一辺約8mの大型で北側にかまどがあります。その他、南側にかまどが付く竪穴住居144もあります。かまどの向きの違いや、竪穴住居の重複関係から、数時期にわたる建て替えがあったと考えられます。

さらに下層からは、縄文時代や弥生時代の土器も出土しています。

調査平面図

まとめ

調査地近辺は、奈良時代には葛野郡葛野郷であったと推定されています。調査地の北西では同時期の大型掘立柱建物がみつかっており、今回の成果と合せて、付近が葛野郷の中心であった可能性が高くなりました。また、古墳時代後期の竪穴住居がまとまってみつかったことは、西京極遺跡の変遷や存続時期を考える上で重要な発見といえます。