今城塚古墳第10次調査 現地説明会

平成19年(2007年)3月4日(日)
主催 高槻市教育委員会

※このページの文、図は、すべて当日配布の現説資料(高槻市教育委員会)からの転載です。

平成19年3月4日
史跡今城塚古墳の第10次調査(現地説明会資料)

調査面積約300m2
調査主体高槻市教育委員会会
調査期間平成18年12月1日から
調査担当者宮崎康雄 佐伯めぐみ

展示されていた航空写真のパネル
展示されていた航空写真のパネル

1.はじめに

調査位置図
調査位置図

三島古墳群の中央に位置する今城塚古墳は、6世紀前半に築かれた淀川北岸で最大の前方後円墳です。全長190m、南北には造出を伴い、墳丘の周囲を巡る二重の濠と堤を含めた総長は350mをはかります。墳丘は文禄5(1596)年の伏見地震による大規模な地滑りのため、各所で大きく崩壊しています。

高槻市では今城塚古墳の保存整備に向けた規模確認調査を平成9年度から実施し、古墳本来の姿を追究してきました。今回の第10次調査は、後円部の北側墳丘の遺存状態や盛土の状況などを探るためにおこないました。

2.調査でみつかったもの

調査前の地形は、後円部中央から北にむかって地すべりによる落差約4mの滑落崖が東西方向にそそり立ち、北側には崩壊した盛土が各所でこぶ状の高まりとなっていました。トレンチ(調査区)は、以前におこなった第2次と第8次の調査区とをつなぐかたちで南北方向に設定しました。

◆石室基盤工

後円部北半部、崩落崖裾の北側で、花崗岩類や川原石を用いた「コ」字状の石組を検出しました。全体に滑落部の後(崖)側が大きく沈みこむという、典型的な地震による地滑り(円弧滑り)の状況を示しています。東西の長さは17.7m、南北は東辺で現存長11.2mです。西辺は北端の隅石とその南側の一部の石材が遺存していました。石組の外縁部は、方形や長方形の石材の直辺部(最大長1.15m)をそろえて一直線に並べ、西北の隅部は一辺約50cmの座布団状の石材を用いていましたが、東北隅部は石材が崩れ込んでいました。北辺は中央部が高く、東西の隅にむかって低くなり、西隅では北西側へさらに落らこんでいます。乗辺も中央から折れたように南北が低く、一部は崩壊していました。

外縁の石材は東西辺、南北辺ともに目地を通して最高で3段に積み、高さ(厚さ)は最大で約80cmをはかります。この内側には一辺20〜40cmほどの川原石や板石をびっしりと詰めています。

石材の大部分は、花崗岩類とホルンフェルスで、北方約5.5kmの摂津峡(芥川中流域)やその周辺から運ばれてきたと推定されています。他にも緑色片岩や結晶片岩などがわずかに出土しました。

石組外側の土層を観察すると、石積みの進行にあわせてその都度盛土をよせている状況がよくわかり、この石組が露出せず、盛土内に構築されていたことが判明しました。

遺物としては、凝灰岩(二上山白石・阿蘇ピンク石・竜山石)や金銅製品(刀装具・馬具)、鉄製品(鉄・甲高など)の小片、ガラス小玉などの副葬品類があります。

凝灰岩は小片となって崩落土中に散在していましたが、二上山白石とピンク石には明確な加工痕が認められました。二上山白石では両面に加工痕のある厚さ約15cmの板状の破片が出土し、石材の厚さから組み合わせ式石棺である可能性が高くなりました。庭石とみられる1点にはわずかに朱がのこつています。阿蘇ピンク石の一部にも朱が鮮やかに残っていました。金銅製品・鉄製品・ガラス小玉などは、崖際の石組上に堆積した流土中に散在していました。

◆円礫敷

石組遺構の北側に接するように、東西6.6m、南北1.5mの範囲からこぶし大の円礫が集中して検出されました。古墳の表面被覆土と同様の均質な黄灰色土上面にこぶし大の円礫がまとまり、二上山白石・ピンク石、竜山石などの凝灰岩や形象埴輪(器台)片、鉄釘などが上面から見つかっています。円礫は淡路島・洲本市付近の海岸で産出することが明らかになっています。

3.調査でわかったこと

後円部の石室の位置や、構築法を知るうえで重要な手がかりを得ることができました。

石室基盤工は、検出状況や崩落崖との位置関係から判断して、現況の後円部上面の北側付近にあったものが、地すべりによって崩落したと判断できます。後円部上面でおこなった第8次調査では、南側へ滑落した礫群がみつかっています。その検出状況や石材の形状・種類などが似ていることから、本来は一体であった石組が南北に分かれて崩落したと考えられます。

石組を盛土内に埋めこみ強固な基盤を構築して、上方に設置される大きな重量物(横穴式石室)を直接支えるとともに、その重量を盛土全体に分散させようとしたと考えられます。

これまで横穴式石室の基礎構造は、宇治二子塚古墳(京都府)や市尾墓山古墳(奈良県)などで一部が確認されている程度で、これほど大規模かつ具体的な状況が明らかになったのは初めてのことです。

横穴式石室のような重量物を人工盛土の最上段に築き、なおかつ不等沈下や盛土崩壊を防ぐため、強固な基盤を構築し、あわせて第8次調査で検出した墳丘内石積や排水溝などの設備の状況を考え合わせると、墳丘の造成と石室の構築が如何に周到に計画され、入念に施工されていたかがわかります。

4.まとめ

以上のことから、後円部には横穴式石室が築かれていたことが確実となりました。石室基盤工の検出状況から判断すれば、石室は後円部中央付近にあり、古墳の東西軸に平行、もしくは直交して築かれていたと考えられます。石室の規模は不明確ながら、現存する墳頂部付近が石室基盤工の底面にほぼ相当する高さと推定されることから、本来の墳丘は三段築成であり、最上段となる三段目の盛土内に横穴式石室が築かれていたと考えるのが至当です。ただ、複数の調査地点から石棺片や副葬品類が出土するため、文献にもあるように、早い段階で盗掘を受け、1596年の伏見地震以前に石室はすでに解体されていたことが明らかになりました。

今回の調査では、今城塚古墳の主体部にかかわる遺構をはじめて確認することができました。築造当初の姿や古墳の復元を考えるうえで重要な成果を得ただけではなく、今後の大王陵級の古墳を研究するうえでも、大変貴重な資料になります。

遺構図
遺構図

今城塚古墳「石室基盤工」推定模式図