難波大道(大和川今池遺跡) 現地説明会資料

(財)大阪府文化財センター

※このページの文、図、写真は、すべて当日配布の現説資料からの転載です。

はじめに

大和川今池遺跡は、堺市北区常盤町と松原市天美西に広がる遺跡です。古墳時代から中世にかけての集落遺跡として知られています。

今回の調査は、都市計画道路大和川線建設工事に伴うものです。最も注目される遺構として、古代の官道と考えられている「難波大道(なにわだいどう)」を南北46mにわたり検出しました。

写真:検出された難波大道

難波大道の規模

検出された難波大道は南北方向に一直線に延びています。そして道の両側に排水のための側溝を伴っています。道幅は約17m、両側溝の中心間での幅は18.5mになります。東側溝の規模は幅2.0〜2.9m、深さ0・1〜0.7m、西側溝は幅1.5〜1.7m、深さ0.3〜0.7mです。当時の路面は後世の耕作によって削られており、盛土の一部のみが残っていました。

この道幅は古代の東山道・山陽道の9〜12mより広く、大和の下ツ道・山田道や藤原京の朱雀大路とほぼ同規模で、難波大道が畿内中枢の主要な官道であったことがわかります。

出土遺物からみた存続時期

側溝からは、飛鳥〜奈良時代までの土器が少量ながら出土しています。一方、難波大道廃絶後の耕土には、平安〜鎌倉時代の遺物が含まれることから、難波大道は飛鳥時代以降に建設され、平安時代頃には廃絶していたと考えられます。

その後の難波大道

今回の調査では、難波大道廃絶後の状況も分かってきました。廃絶後、難波大道中央に南北方向の大畦畔が作られました。その大畦畔を基準として条里に基づいた地割がなされ、その周辺は耕作地となりました。そのためにこの太畦畔部分のみに難波大道当時の盛土が残っていました。

遺構図と写真

難波大道の調査

都市計画道路大和川線建設に伴う大和川今池遺跡発掘調査 現地説明会資料
発行/(財)大阪府文化財センター 〒590-0105 大阪府堺市南区竹城台3丁目21番4号 TEL.072-299-8791
印刷/株式会社明新社

「難波大道」とは

難波宮と難波大道

「難波大道」は、難波宮から南に直進する古代の官道です。河内と大和を東西に結ぶ大津道(おおつみち)・丹比道(たじひみち)につながり、横(よこ)大路(おおじ)を経て、下ツ道、中ツ道、上ツ道等により飛鳥藤原京・平城京につながっていたと考えられます。

実はこの難波大道は、長い年月のなかで、本来の場所や名前さえ忘れ去られていましたが、昭和45(1970)年になって、岸俊男・足利健亮両氏によりその存在が推定されました。果たして昭和55(1980)年、大和川今池遺跡の発掘調査において、約18m間隔で平行する2本の溝が検出されました。溝に挟まれた部分は人為的に整地がなされており、その中心線を北に伸ばしたところ、難波宮の中軸線と一致することが判明しました。日本書紀の推古天皇二十一年(613年)十一月条に「・・・・難波より京に至るまでに大道を置く。」という記述があることなどから、後に「難波大道」という名称が付けられました。

現在でも大阪市天王寺区には、難波大道復元ルート隣接地に「大道」の地名が残っています(右図赤丸囲み参照)。

この難波宮から一直線に南下する難波大道の復元ルートは、古くは摂津と河内の国境となっていました。現在では住吉区と東住吉区、堺市と松原市の境界となっています。

このように、現在に至るまで難波大道は境界として踏襲され続けていると言えます。

古代官道と宮都

表紙写真:航空写真

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