馬場南遺跡(神雄寺跡) 現地説明会資料

馬場南遺跡(神雄寺跡)発掘調査 現地説明会資料
大津市教育委員会

平成21年1月17日(土)

所在地名
京都府木津川市木津天神山 地内
調査主体
木津川市教育委員会(教育長 久保三左男)
調査契機
市内重要遺跡の確認調査(平成20年度国庫補助事業)
調査期間
平成20年9月22日〜平成21年1月23日(予定)
調査面積
約150m2

1.調査の目的と経過

本遺跡においては、(財)京都府埋蔵文化財調査研究センターが、関西文化学術研究都市木津中央特定土地区画整理事業に伴う事前調査として、平成19年度の試掘調査(第1次調査)を経て、平成20年度に本調査(第2次調査)を実施しています。この調査では、奈良時代の曲水状池跡から万葉の歌木簡や大量の灯明皿,三彩の須弥山などが出土しました。調査地は、岡田国神社南方天神山南側の東西に伸びる谷筋で、平城宮や東大寺から奈良山越えで泉津にいたる幹線道路沿いにあり、平城宮と恭仁宮のほぼ中間(それぞれまで約5km)に位置します。また、この調査では、「神雄寺」銘墨書土器が出土したことから、ここがいままで知られていなかった古代寺院跡であることがわかったのです。

木津川市教育委員会では、これら調査成果の重大性と予想される遺跡の重要性に鑑み、京都府教育委員会の指導を得て、遺跡の保存と今後の国史跡指定を目指した遺跡の範囲と内容確認のための試掘調査を、開発予定地外の丘陵部において実施しました。

2.調査の概要

調査地の選定にあたっては、ここが寺院跡であるとともに祭祀遺跡の性格をもつことも考慮し、まず丘陵部の踏査を行い、トレンチ調査を実施しました。試掘調査地は、(財)京都府埋蔵文化財調査研究センターの調査によって大規模な燃燈供養の法会が営まれたと予想される平坦面(平坦面1)の北側と東側の尾根上,そして北側に伸びる谷部の計3箇所です。

調査の結果、(財)京都府埋蔵文化財調査研究センターの調査によって検出された掘立柱建物跡(SB01)の北側丘陵裾で、礎石立建物跡(仏堂)を検出することができました。ここは、かつて天神山11号墳と認識されていた箇所で、尾根裾を削って造成した狭い平坦面に、直径7m程度の墳丘状の隆起がみられました。結果的には、この隆起が仏堂内の須弥壇の高まりと判明したのです。

検出した仏堂跡は、計5個の礎石を残しており、側柱と心柱のみで建つ特異な構造の東西棟入母屋造り建物と考えられ、正面と背後にはさらに裳階が付き、軒を長く伸ばしています。柱間は、桁行が16.5尺(約4.9m)で背面5間(3.0尺・3.5尺・3.5尺・3.5尺・3.0尺),正面4間(3.0尺・5.25尺・5.25尺・3.0尺)で、梁間15.0尺(約4.5m)4間(3.0尺・4.5尺・4.5尺・3.0尺)と復原できます。正面と背面で柱間が異なる点については、背面の中央8間分(10.5尺)を二等分して、正面に2箇所の扉を設けた結果と考えられます。なお、建物造営尺には天平尺が用いられており、1尺=0.297mとなります。また、この建物の方位は、真北に対して約20度程度西に偏しており、火災により焼失したことがわかります。

仏堂内部の須弥壇は、13.5尺(約4.0m)×12.0尺(約3.6m)の規模をもち、側面には平瓦の凸面を表にして貼り付けていました。検出状況は、この平瓦がすべて外側に剥れて凹面を上にした状態で出土しています。したがって、当初の須弥壇の高さは、平瓦1枚分の長さから30cm程度と推定できます。建物と須弥壇の関係は、柱の心からで3尺(約0.9m)程度の隙間しかなく、実際にはもっと狭いため、建物内部は仏の空間として人の出入りは不可能です。なお、心礎の抜き取り穴と考えられる中央付近は盛り上がっており、当初から心柱の周りが築山状の高まりであったことがわかります。

出土遺物としては、須弥壇周辺から多量の塑像片やせん仏片,焼壁土,金属製品が出土しました。塑像片はその特徴から等身大の四天王像と考えられ、細片化していますが、出土位置の偏りから須弥壇上での位置関係(持国天・増長天・広目天・多聞天)を特定することができます。せん仏片は、その形態を特定できるものが1点しかありませんが、三重県名張市の夏見廃寺出土の方形三尊せん仏と同じ原型によるものであることがわかります。焼壁土は、建物四面のうち東・西・南の中央2間に扉が付き、それ以外は壁と考えられるため、大量に出土します。金属製品には、鉄製の円形鋲留扉金具や建物に使用された釘,堂内荘厳具の銅製鋲や塑像の鉄芯などがあります。

また、仏堂周辺からは、雨落ち溝付近で平城宮式軒丸瓦を含む屋瓦類の出土をみますが、全体的に出土量が少なく、屋根全体に瓦が葺かれていたとは考えられません。おそらくは、大棟など一部に使用されたようです。なお、土器類には、土師器・須恵器・緑釉陶器などがありますが、いずれも細片です。

3.調査成果のまとめと今後の課題

※「神雄寺」本堂は、中国風の特異な構造であり、堂内を等身大の四天王像や壁面のせん仏により荘厳するなど、組合せ式の三彩須弥山を祀るに相応しい構造となっている。

検出した仏堂は側柱で建てられており、この様式は中国の唐代から五代(8世紀〜10世紀)の現存遺構にみられます。これらの建物は、いずれも3間×3間の柱間ですが、内部に柱がないため須弥壇を広く取れるという特徴をもちます。検出した仏堂は、柱間は異なりますが、内部空間を広くするために中国から最新の建築様式を取り入れたと考えられます。また、堂内は、壁面をせん仏で荘厳し、等身大の四天王が本尊を守護していました。まさにこの仏堂は、その立地からも「神雄寺」の本堂(正堂)と考えられます。なお、本堂正面を2間にするのは極めて特殊ですが、安置仏との関係を示していることは明らかです。

須弥壇中央には、礎石の抜き取り穴と考えられる遺構が存在し、これを心柱を支えた心礎とするか、本尊を安置するための台石の跡とするかは判然としません。しかし、この遺構の周囲は築山状の高まりとなっており、建物と堂内の状況を総合的に判断すると、ここが、(財)京都府埋蔵文化財調査研究センターの調査により曲水状池跡やその周辺から出土した組合せ式の三彩須弥山を祀るに相応しい場所と考えます。

※ 大規模な仏教法会(燃燈供養)を執り行う特殊な装置としての「神雄寺」の存在は、いままでの古代寺院・仏教観を一変させるものである。

(財)京都府埋蔵文化財調査研究センターの調査で検出した掘立柱建物跡(SB01)は、今回検出した本堂の正面に建物方位を同じくして建てられています。したがって、この建物が正堂に対する礼拝空間としての礼堂(細殿)であることは明らかです。しかも、本堂正面の庇は、この建物に向かって長く伸び、あたかも軒廊のように両者の連続性を示します。さらに、礼堂が建つ平坦面では大規模な燃燈供養が行われ、本堂背後の天神山は聖なる神山として聳えているのです。神山に湧く聖水は、大規模な法会の場(ステージ)を囲む池に蓄えられ、その場の清浄さを際立たせます。

大規模な法会を執り行う巨大な装置としての「神雄寺」の存在は、主に学解中心の平地寺院や山林修行を中心とした山岳寺院(山林寺院)とは異なる、別の寺院形態と考えざるを得ません。

※ 古代仏教における神仏習合や国家仏教のあり方など多くの問題に、「神雄 寺」跡の調査は大きな一石を投じることとなった。

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