石神遺跡第21次調査 現地説明会資料

石神遺跡第21次調査 現地説明会資料
奈良文化財研究所 都城発掘調査部

表紙写真:10人ぐらいでの発掘風景

はじめに

石神遺跡は飛鳥寺の西北に位置し、南接する水落(みずおち)遺跡(漏刻台(ろうこくだい))と一体の遺跡です。須弥山(しゅみせん)石や石人像が出土したことから、斉明朝(7世紀中頃)には、蝦夷(えみし)や隼人(はやと)など辺境の民や外国使節を饗宴(きょうえん)する施設があったと考えられています。

奈良文化財研究所は1981年以降継続調査を実施し、7世紀を通じて計画的に配置された建物・広場・井戸・溝などが、何度も造り替えられた状況を明らかにしています。今回の調査は21回目(石神遺跡第21次)になります。

調査区の北側で実施した昨年度の発掘調査(石神遺跡第20次)では、斉明朝期の遺跡の東限施設とみられる南北方向の総柱建物(そうばしらたてもの)を確認しました。今回の調査は、東限施設の南の続きを確認し、あわせて周辺の状況を明らかにする目的で実施しています。調査開始は2008年10月2日で、調査面積は480m2です。

遺構の変遷

7世紀前半と後半の2回の整地土の上に展開する掘立柱建物群や塀(へい)を確認しました。これらの遺構は整地の時期差や遺構の重複関係から8時期に分けられます。

7世紀前半〜中頃(I〜IV期)

I期に最初の整地が行われ、II期以降、調査区西側を南北に通る塀1・4と、塀に取り付く建物1〜3が営まれます。その東約16mの地点に塀3があり、塀1・4と塀3の間が通路として機能した可能性があります。通路を境に遺構密度が急激に希薄になるため、ここが遺跡東限と推定されます。

7世紀後半(V〜VIII期)

調査区一帯は再度整地されて通路的な空間は消え、かわりに溝で区切られた区画内に掘立柱建物が点在するなど、7世紀後半の土地利用は一変します。この時期には、天武朝(てんむちょう)頃の官衛(かんが)の存在が推定されていますが、その構造はまだ明らかではありません。

出土遺物

7世紀の土器や瓦が大量に出土しました。上下の整地土から出土した土器は時期が異なるため、整地の年代を考える垂要な手がかりとなります。須恵器(すえき)の硯(すずり)や新羅(しらぎ)産とみられる土器も出土しました。瓦は7世紀前半のもので、その多くが、IV期の溝1とその周辺で出土し、この付近に瓦を使った建物が存在したようです。

まとめ

今回の調査では、7世紀代の石神遺跡の変遷が明らかとなり、さらに斉明朝における饗宴施設の東限の様子が判明しました。さらに遺跡の規模は、南北約180m、東西約130mと推定され、その全容を把握できるようになりました。

古代の遺構変遷図
古代の遺構変遷図

遺跡位置図
遺跡位置図

調査位置図
調査位置図

遺構平面図
遺構平面図

調査区全景(西から)
調査区全景(西から)

建物7と塀3(北から)
建物7と塀3(北から)

溝1 瓦出土状況(北から)
溝1 瓦出土状況(北から)

7世紀前半〜中頃の東限施設群(南から)
7世紀前半〜中頃の東限施設群(南から)

出土土器
出土土器

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