元稲荷古墳第7次調査

2010(平成22)年9月25日(土)
元稲荷古墳西くびれ部の調査
財団法人向日市埋蔵文化財センター

所在京都府向日市向日町北65一5ほか
調査期間2010(平成22)年7月21日〜9月30日(予定)
調査所管向日市教育委員会
調査機関財団法人向日市埋蔵文化財センター(担当 梅本康広)
調査協力京都府乙訓土木事務所 向日市建設産業部 向日神社 向日台団地

1 はじめに

当センターでは向日丘陵古墳群の保存活用を主目的として元稲荷古墳の後方部に対する範囲内容確認調査を2006(平成18)年からはじめています。過去4年間の成果としては、後方部東側(第3〜4次)及び北側(第5次)、南側西南端裾から第二段斜面南西隅角(第6次)までの範囲の遺存状況と墳丘裾位置を確認することができました。

今年度は西くびれ部の位置を明確にすることを主目的に調査を実施しています。

2 調査の成果

調査の結果、後方部から前方部にかかるくびれ部の下半部(墳丘基底平坦面から第二段斜面裾まで)を検出することができました。また、墳丘の保全をはかるために一部を掘り下げ盛土の構築状況を把握しました。以下には成果の概要を記述します。

〔1〕外表施設の構造

基底平坦面

礫敷の一部が後方部側で検出されました。段丘層(地山)の上に暗灰茶色粘質土を施して、拳大の礫を敷き詰めています。この直上に被さる転落石と流土の厚い堆積層の中から長岡京期の土器類が出土しており、その頃から墳丘の改変が行われていた可能性があります。

第一段斜面

後方部の斜面長は水平距離で約4.0m、高さ約1.5m、前方部での水平距離は約2.5m、高さ約1.0mになります。葺石は後方部側では長さ10cm未満の礫が多く用いられ、基底石は明瞭でなくやや大振りの礫が数石ならぶ程度です。前方部側では基底石をしっかりとならべており、10cm大の礫を斜面に直交させて積み重ねる小口積みが顕著に施されています。くびれ部は裾がゆるやかに折れ曲がるように前方部と後方部の接点から事前に0.5mほど引き寄せて基底石を斜めにならべています。くびれ部から後方部にさしかかった斜面裾付近には長さ約0.6m、幅約0.3mの長大な砂岩が置かれています。葺石施工にあたっての目印として用いられたものかもしれません。

第一段平坦面

後方部では幅約1.5mを有し、ほぼ水平な面につくられ、礫敷が良好に遺存しています。斜面の葺石背後の裏込め土と同じ暗灰茶色粘質土を用いて礫が敷き詰められています。

第二段斜面

後方部では長さ20〜25cm大の基底石を約55〜60°の傾斜角で立て掛けて設置する傾向が強くみられます。葺石は長さ10cm未満の礫が多く、積み重ねるというよりも裏込め土を多用しながら詰め込むような施し方であったと考えられます。ほとんどが崩れ落ちており、基底石までも倒壊している箇所があります。くびれ部では高さ 0.6mまで急勾配で立ち上がり、それより上方は緩斜面に変化している状況がはっきりと窺えます。前方部と接続する箇所では10cm大の礫を重厚に施して、基底石大の石を「貼り石」状に3〜4段積み上げています。この東端のならびは接続部に沿って斜め上方に築かれていますが、前方部の葺石によってそれらが覆い被さることから後方部が先行する葺石施工であったことがわかっています(第2次調査)。前方部の基底ラインはくびれ部から約4.0m南側までが墳丘主軸と併行するようにまっすぐのびています。この間の葺石は明瞭な基底石を用いず、10cm大の礫で裾から積み上げる傾向があります。これより南側では少しずつ外側へひらいていき、基底石は石面の長い方を横に据え置くようになります。

〔2〕盛土の構築状況

くびれ部の南側約3.0m付近で墳丘盛土の観察を東西方向に行いました。段丘層(地山)は標高56.90m付近で平坦に揃いますが、墳丘裾の手前約1.0mからは一段深く掘り込まれていました。丘陵地形をを削り出して墳丘の原形をつくり、その内側へ盛土を施しています。墳丘裾から約3.0m内側では段丘層の直上に極めて固く締まった暗茶色砂質土が層厚0.4mで確認されます。最初に築く盛土に灰などを混ぜて硬化させていたものと考えられます。また、弥生時代後期の北山遺跡に関わる土器、石器類が多く含まれており、旧表土を削って改良し積み直すという、いわば「基礎地業(ちぎょう)」を施していたとみられます。墳丘盛土の基底部を固く締めることで段丘層と盛土の間で滑りや崩壊を防ぐ効果があったものと推測されます。この層の上には土手状に築かれた盛土の単位が認められます。高さ約0.6mの山形をしており、これをはさんで内外に強度を変えながら盛土が交互に積まれていました。土手状盛土の高さまで水平に盛土が施されるとさらに内側へ土手を築いて同じ工程が繰り返されていたと考えられます。同じような墳丘の構築工程は後方部でも確認されています。

3 調査の意義

今回の調査の成果については以下のようにまとめることができます。

  1. 西くびれ部の墳丘下半部を検出し、その正確な位置と形状、構造などほぼ全容を把握した。
  2. 前方部の墳丘の築成方法を確認し、盛土の基部に「基礎地業」を確認した。
  3. 墳丘の築成や葺石施工の方法は、大和の大王墓級古墳で確立した構築技術を共有する。

元稲荷古墳は前方後円墳が巨大化し定式化した後の3世紀後葉につくられた大形前方後方墳として最古の一群に属します。桜井市箸墓(はしはか)古墳のおよそ3分の1規模に相当し、墳丘築造の規範を共有する神戸市西求女塚(にしもとめづか)古墳(墳丘長約98m)とともに畿内屈指の大形前方後方墳にあたります。このような古墳のくびれ部の全容がわかる事例は他になく、前方後方墳の性格を探る上で重要な成果と評価されます。

くびれ部は前方後方墳を最も特徴づける場所になります。元稲荷古墳の後方部は三段の方丘に築かれており、円丘に築かれた前方後円墳とは葺石で覆われた完成時の外観を全く異にしています。前方部という付加壇からみた主丘の景観は、くびれ部から直線を描く葺石の稜線によって巨大な方形の石壇を想起させます。一方の円丘の石壇は中国皇帝陵のイメージに近く、両者は東アジアの王陵の造形的模倣と思想的啓発を受けて倭国独自に考案され創出された可能性をみることができます。

主丘が円形か方形であるかは、王者のモニュメントの外観を大きく変えるものであり、その違いには埋葬された王(首長)の性格の違いが如実に反映されていたと考えざるをえません。

元稲荷古墳の被葬者は箸墓古墳を頂点とする初期「倭王権」に参画しながらも政治経済的に自立した桂川流域を支配拠点に置いた有力な首長であったと考えられます。畿内から各地へつながる交通の要衝をおさえた「オトクニ」の首長として軍事的、経済的力量に対する評価が王権内部での政治階層的立場にあらわされ、前方後方墳が採択されたと考えられます。

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