長尾山古墳

2010(平成22)年10月16日(土)
宝塚市教育委員会/大阪大学考古学研究室

長尾山古墳は1969〜1970年に宝塚市教育委員会・夙川学院短期大学日本歴史研究会による測量調査により、長さ36mの前方後方墳であると推定されました。ただし、その後も発掘調査が実施されることはなく、猪名川流域(兵庫県南東部〜大阪府北西部:豊中市・池田市・箕面市・川西市・宝塚市・猪名川町・伊丹市・尼崎市)の古墳時代首長系譜(各地域ごとの首長の盛衰)を考えるうえで重要な遺跡であるにもかかわらず、墳丘形態や築造時期については不明な点が残されていました。

そこで大阪大学では宝塚市教育委員会の協力を得て2007年8〜9月にかけて、長尾山古墳の測量およびトレンチ調査を行いました。続いて2008年夏、2009年夏には、宝塚市教育委員会と大阪大学考古学研究室の両者が共同で調査主体となり発掘調査を実施しました。

その結果、長尾山古墳は墳長約40mの前方後円墳であり、出土埴輪からみてこれまで考えられてきた4世紀末〜5世紀初頭(古墳時代前期末〜中期初頭)のものではなく、4世紀初頭(古墳時代前期前半)にさかのぼる猪名川流域では最古の古墳であることが明らかになりました。また、墳丘南側では葺石基底石と埴輪列によって詳細な墳形が判明し、後円部墳頂では墓坑(棺を埋めるために掘られた墓穴)を確認することができました。しかし、後円部の段築成の構造や墳丘北半のクビレ部(後円部と前方部の接点)の位置が未確認の課題として残りました。また、後円部墳頂における埋葬施設の詳細についても不明でした。

そこで本年度は墳丘については北側斜面の詳細な形を明らかにするために、また埋葬施設についてはその残存状況を把握するために8月30日から調査を開始しました。

長尾山古墳の粘土槨(南から)
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古墳名長尾山古墳(墳長40mの前方後円墳、4世紀初頭)
所在地兵庫県宝塚市山手台東1丁目4−424
調査主体宝塚市教育委員会
大阪大学考古学研究室
調査方法墳丘斜面および墳頂部の発掘調査(2ヶ所、合計77m2
調査期間2010年8月30日〜10月20日(予定)

長尾山古墳の位置
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本年度は、墳丘北側斜面の詳細な形を明らかにするためにクビレ部付近に1ヶ所(北クビレ部2010調査区)、埋葬施設の残存状況を把握するために墳頂部に1ヵ所の調査区(墳頂2010調査区)を設けて、8月30日から調査を開始しました。

2010年度長尾山古墳発掘調査区配置図
図

(1)墓坑規模・構造の解明

墳頂部では、墳丘主軸と斜交する長さ8.9m、幅5.0m、深さ2m以上の大きな墓坑が確認されました。墓坑は2段に掘られており、下段は地山を1m以上垂直に掘削しています。

(2)粘土槨(ねんどかく)の発見

墓坑の内部に長さ6.7m、幅2.7m、高さ1mの粘土槨(木棺を粘土でくるんだ埋葬施設)を発見しました。全国でも10指に入る巨大な粘土槨です。残存状況はきわめて良好で、南半部では被覆粘土上面のゆるやかなカーブがそのまま残っています。精良な粘土を用いて築かれており、粘土の表面は凹凸もなく平滑です。これだけ巨大な粘土槨が当初の形をほぼ完全に保っているのは、稀有な例といえます。粘土槨の下部には、礫が敷きつめられています。

(3)排水溝の確認

墓坑の南東隅を切り開いて底にたまった水を外に出す排水溝が作られていることがわかりました。排水溝の規模は上面幅1.75m、深さ1m以上で、北クビレ部方向へ延びています。構内の堆積土は墓坑の埋土と一連のもので、墓坑と一緒に埋め戻されたことがわかります。今回は内部の調査は行っていません。

墳頂2010調査区(南から)
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(1)墳丘構造の確定

今回の調査では、墳丘の北側において前方部から後円部への屈曲部分(クビレ部)を検出しました。2008年に調査した南クビレ部と合わせて、南北両方のクビレ位置が確定したことにより、長尾山古墳の正確な墳形が明らかとなりました。

また、葺石の残存状況から後円部が2段築成であることがほぼ確実となりました。これにより、長尾山古墳は前方部、後円部ともに2段築成の墳丘構造を持つと結論づけられました。

(2)埴輪に関する情報の増加

北クビレ部2010調査区では5本の円筒埴輪がほぼ樹立したままの位置で検出されました。そのうちの1本は、底部から突帯の高さまでが残存しており、長尾山古墳ではもっとも残りの良い資料となります。長尾山古墳の埴輪の形を復元する貴重な手がかりを得ることができました。

このほかにも円筒埴輪の口縁部、スカシ孔の部分に該当する破片など、新たな知見が得られています。

北クビレ部2010調査区(北より)
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  1. 4世紀初頭にさかのぼる最古段階の巨大な粘土槨を検出。長さ6.7m、幅2.7m、高さ1m以上。長さ、幅、高さを総合的に見ると国内でも10指に入る規模。棺をくるんだ粘土があまり陥没せずに構築時の状況が保たれており、残存状況はきわめて良好で稀有の事例といえます。墓坑底には礫を敷き、墓坑南東隅を開削して北クビレ方向に延びる排水溝を設けるなど入念な構造。
  2. 墳丘北側のクビレ部を検出。2008年度に調査した南クビレ部の成果と合わせて南北両クビレ位置が確定したことにより、正確な墳形が明らかとなりました。規模は墳丘長約40m、後円部径25m、前方部長15m。前方部、後円部ともに2段築成の前方後円墳と結論づけられました。
  3. 粘土槨は古墳時代前期前半の新段階(4世紀初頭頃)に畿内で成立した新しい埋葬施設。竪穴式石室と併存しながら、一般には竪穴式石室被葬者に次ぐ階層の埋葬施設として用いられる傾向があります。長尾山古墳のものは重厚かつ大規模な初現段階のもの。墳丘長約40mの比較的小さな前方後円墳ですが、いち早く最新の埋葬施設を取り入れている点から見て、被葬者は大和政権との間に密接な政治関係を結んだ猪名川流域最初の有力豪族と考えられます。長尾山古墳は、大和政権の地域浸透過程を解明するうえで重要な遺跡と評価できるでしょう。

粘土槨(北西から)
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粘土槨の完成時と現在
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調査成果速報のHP http://www.let.osaka-u.ac.jp/kouko/

調査にあたっては、山手台東自治会、小浜自治会、里山整備活動グループ「櫻守の会」、阪急不動産株式会社山手台開発事業部のお世話になりました。末筆ながら記して感謝の意を表します。

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