鈴谷(すずたに)遺跡

2010(平成22)年10月16日(土)
(財)京都府埋蔵文化財調査研究センター

調査場所長岡京市奥海印寺高山・鈴谷
調査期間平成22年6月1日〜平成22年11月30日(予定)
調査主体(財)京都府埋蔵文化財調査研究センター
〒617−0002 京都府向日市寺戸町南垣内40-3
URL http://www.kyotofu-maibun.or.jp/

鈴谷遺跡は長岡京市奥海印寺高山・鈴谷に所在する遺跡で、長岡京跡の西に位置し、古代の須恵器(すえき)窯が存在したことが知られています。

今回の調査は京都第二外環状道路建設に先立って実施しました。調査対象地は丘陵の斜面地に位置し、調査前は竹林でした。調査区を4ケ所設定して調査を進めた結果、古墳時代の遺構・遺物を数多く検出しました。

調査地点位置図(1/25,000)
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丘陵斜面に4ヶ所のトレンチを設定して調査を実施したところ、2・3トレンチでは遺構・遺物は確認できませんでした。4トレンチの地層からは長岡京期の土馬を、東端に設定した1トレンチでは横穴式石室(よこあなしきせきしつ)のほか、土坑などを検出しました。

調査区トレンチ配置図(1/2,000)
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1トレンチ

1トレンチ北寄りの地点で、小規模な横穴式石室(SX01)を1基検出しました。石室の規模は全長3.5m(玄室(げんしつ)長2.0m・羨道(せんどう)長1.5m)、幅0.6mです。30〜40cmの石材が用いられ、玄室(埋葬空間)と羨道(玄室に至る通路)の幅が変わらない石室です。玄室の床面には小石が敷かれ、須恵器杯(つき)・蓋(ふた)と土師器甕(はじきかめ)が出土しました。羨道から玄門(玄室入口)にかけて、埋葬後に羨道を塞いだ閉塞石(へいそくせき)が見つかりました。石室の周囲からは周濠(しゅうごう)などの古墳の墳丘規模や形態を示す遺構は検出されませんでしたが、石室の大きさから推定して、全長10m以下の小規模な古墳と思われます。築造時期は石室と須恵器の形から、7世紀中頃から後半にかけての時期と考えられます。石室の北側が後世に大きく改変されているため、この古墳1基だけが造られたのか、周囲にあった古墳が壊されてしまったのかはわかりません。

東半部ではピット・土坑が密に分布していました。出土遺物はこれらの土坑及びその周辺から、古墳時代後期(6世紀頃)の土師器・須恵器がまとまって出土しました。食器や煮炊きの道具が中心です。

また、遺物の包含層から、古墳時代前期(4世紀頃)の家形埴輪の破片などが少量出土しました。調査地の近くに埴輪で飾られた古墳があったようです。

1トレンチ遺構平面図(1/600)
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1トレンチ埴輪破片(右2点:家形埴輪)
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1トレンチ土坑(SK090)周辺の遺物出土状況
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1トレンチ土坑(SK090)出土遺物
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1トレンチ横穴式石室(SX01)平面図(1/40)
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1トレンチ横穴式石室(SX01)全景(南東から) ※1
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1トレンチ横穴式石室(SX01)石室内遺物出土状況 南東から ※2
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※1、※2:サイト管理者注:配布資料ではモノクロ写真でしたが、同じものがカラー写真でパネルとして展示されていましたので、それを掲載していいます。

1トレンチ横穴式石室(SX01)出土遺物
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今回の調査では、7世紀中頃から後半にかけての小規模な横穴式石室をもつ古墳が見つかりました。この時期は古墳時代から古代への移行期で、古墳が次第に造られなくなる一方、仏教が広まり、各地で古代寺院が造られる時期です。横穴式石室(SX01)は、乙訓地域で造られた古墳の中では最も新しい時期の古墳と考えられます。

1トレンチで数多く発見されたピット、土坑は性格がよくわかりませんが、6世紀頃の遺物が比較的まとまって出土している事から、調査区とその周辺には集落が営まれていた可能性があります。

また、1トレンチで前期の埴輪が出土したことから、この一帯に前期古墳が存在した可能性も考えられます。


横穴式石室 横に入口を持つ石組みの埋葬施設で、あとからの埋葬(例えば最初に葬られた人の子供などの埋葬)が可能です。5世紀の後半頃から、7世紀まで全国の古墳に採用されました。
玄室 遺体およびそれを入れた棺を安置した空間。
羨道 外部から玄室へ進入するための通路。
玄門 玄室と羨道の境界部分。
玄室よりも羨道の方が幅をせばめる箇所。袖に置かれる石を袖石といいます。横穴式石室(SX01)には明確な袖がありませんが、大きな石が1つあり、袖石として積んだ可能性があります。
閉塞石 遺体を埋葬後、玄室を遮断するために羨道を塞いだ石。

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