平城宮跡東院地区(平城481次調査)

2011(平成23)年6月19日(土)
独立行政法人 国立文化財機構 奈良文化財研究所 都城発掘調査部

遺構図/調査区全景

図遺構図

調査区全景

調査の概要

平城宮は約1km四方の東側に東西約250m、南北約750mの張り出し部をもちます。その南半約350mの範囲を東院地区とよんでいます。『続日本紀』などの文献から、皇太子の居所である東宮や天皇の宮殿がおかれたことが知られます。神護景雲元年(767)に完成した「東院玉殿」や、宝亀4年(773)に完成した「楊梅宮」は、この地にあったと考えられています。

東院地区ではこれまで南半部および西辺部を中心として発掘調査を進めており、前者では庭園遺構の存在が、後者では建物の頻繁な建て替えが明らかになってきました。特に2006年度から、西辺部の重点的な発掘調査をすすめています。本年度もこの方針のもとに、第446次調査区(2009年度)の北、第469次調査区(2010年度)の東に、816m2(東西24m、南北34m)の調査区を設定し、2011年4月4日に調査を開始しました。

奈良時代後半の平城宮(井上和人『日本古代都城制の研究』(吉川弘文館、2008年)所収図に加筆)
図

今回の調査区と周辺の既発掘区
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石組溝

調査区の中ほど南寄りで東から西へと流れる石組の溝を検出しました。第469次調査区で検出したクランク部分を再検出し、さらにその東に9.5m以上延びることを確認しました。今回の調査区で検出した底石上面の標高をみると、東西の端で約60cmと大きな高低差があり、強い傾斜をもつことがわかりました。また当初、東西にまっすぐ通っていた溝は、2期より前にクランクさせたものと考えられます。

柱穴

本調査区内では、奈良時代の間に6時期以上の建物群の変遷が確認されました。掘立柱の抜取穴からは、多くの瓦などが出土しました。

遺構の変遷

1期

調査区西辺中央の東西石組溝、西辺部の南北塀により区画され、調査区南部に東廂付南北棟建物が配置されます。調査区の東辺部では、南北柱穴列を検出しましたが、東に展開する建物となる可能性があります。石組溝は当初、東西にまっすぐ通っていたものを、ある段階でクランクさせて、北側へと付け替えています。

2期

調査区中央部南寄りと調査区北部に2条の東西塀が約13.6m(46尺)を隔てて並行します。南の東西塀の柱穴は掘方が大きく、抜取穴には多量の瓦が捨てられ、この時期、瓦葺建物が存在した可能性があります。

3期

調査区の西部が南北塀で区画され、その東に小さな規模の南北棟建物、東西棟建物が建ちました。南北塀の西には、東西5間の建物が3棟建ち並んでいました。

4期

調査区の西南部に、柱掘方の深い建物があり、第469次調査区で検出した南北棟建物に接続する可能性があります。またその東にはこれらと北側柱筋を同じくする総柱建物もありました。

5期

調査区の西南隅部に、総柱建物が建ち、中央部以北では3期の小さな規模の建物があった場所とほぼ位置を同じくして、2棟の建物が建てられました。

6期

第446・469次調査区からつづく、南北塀1条、東西塀2条で区画されます。南北160尺の区画は、真ん中で区切られ、北の区画には東西棟建物が建ちます。南北塀は調査区外の北へ延び、奈良時代末期における東院地区西辺部が、極めて整然と計画されていた様子がわかりました。


1期から6期の図

平城宮跡東院地区の調査 平城第481次調査
現地説明会資料 2011年6月19日
一独立行政法人 国立文化財機構一奈良文化財研究所 都城発掘調査部
〒630−8577奈良市二条町2丁目9−1
http://www.nabunken.jp/
制作:企画調整部写真室 印刷:能登印刷(株)

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