讃良郡条里遺跡(しろみさいにしこふん) 現地説明会 II 資料

2012年(平成24年)9月1日(土)
四條畷市教育委員会・寝屋川市教育委員会・公益財団法人大阪府文化財センター

表紙写真

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四條畷市では初めてとなる古墳時代前期の集落(1-3 区、南西から)

位置と環境

讃良郡条里遺跡は、四條畷市の北西部から寝屋川市南部にかけて広がっている縄文時代から中世にかけての遺跡です。条里とは奈良時代に制定された土地を区画する制度で、この地域では現在でもほぼ南北方向に一辺約109mの田んぼのアゼや道路・水路などの痕跡がみられます。また遺跡内では、四條畷市砂遺跡(縄文時代・古墳時代・中世)・四條畷市蔀屋北遺跡(弥生時代~中世)・寝屋川市高宮八丁遺跡(弥生時代)・長保寺遺跡(古墳時代~中世)など各時代の集落跡が発見されています。

現在、四條畷市大字砂から寝屋川市新家2丁目の場所において、平成23年8月から四條畷市教育委員会・寝屋川市教育委員会・公益財団法人大阪府文化財センターが共同で大型店舗建設に伴う発掘調査を進めています。第1回現地説明会では、弥生時代前期から中世に至る田んぼの移り変わりと古墳時代・弥生時代の集落についての成果を紹介しましたが、それ以降にも新たな調査成果があがっております。

図・写真
調査位置図(地図は国土地理院5 万分の1 地形図を使用)

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トレンチ配置図(地図は都市計画図1/2500 を基に改変して作図)

中世のくらし

3区では、平安時代から鎌倉時代にかけての集落がみつかりました。地形の高いところに人々は住み、低いところを田んぼや畠など生産域として土地利用したようです。集落の中では、井戸を多数確認しました。井戸は、井戸枠に曲物や板材等を使用したものがありました。深さが2mを超えて、古墳時代に堆積した砂層に達するものもあります。

集落では、非常に多数の柱穴がみつかっており、何度も掘立柱建物を建て直しながら長期間に渡って人々が生活したことがうかがえます。

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井戸(3区、西から)

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井戸(3区、西から)

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井戸(3区、西から)

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井戸(3区、北から)

古代のくらし

平安時代の田んぼ

今回調査を行った調査地全域で、平安時代後期(約1000 年前)の田んぼがみつかりました。讃良郡条里遺跡の名前の由来ともなった、「条里」の田んぼで周辺に現在も残る田んぼの原形となるものです。長地型と呼ばれる条里で、方形に区画された田んぼが整然と並んでいますが、もともとあった高まりに制限されて形が変わる場合もあったようです。

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平安時代後期の田んぼ(1-3 区、南から)

海獣葡萄鏡( かいじゅうぶどうきょう)

奈良時代の銅鏡が、現在の地表面より約2.1m掘り下げた位置で鏡面を上にして出土しました。出土した鏡は海獣葡萄鏡という種類の鏡で、直径は3.9cm あります。中央に鈕(ちゅう)と呼ばれるつまみのようなものがあり、そこに紐を通すための孔(あな)が設けてあります。その周りには獣が四匹描いてあります。その外側には小さい珠点(しゅてん)があって、葡萄の文様の名残と考えられます。

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海獣葡萄鏡出土状況(1-5 区、南から)

この鏡の特徴は直径が小さい点です。この鏡を作る見本となった鏡にあった外側の区画(外区)をこの鏡では削除して、内側の区画(内区)部分だけの鏡として鋳造されています。日本列島で鋳造した製品と考えられます。このような内区部分だけの鏡は、鏡面等を研磨せず、鋳造したままの状態で出土することが多く、祭祀専用の鏡として作られたものと思われます。鏡が出土したのは中世以降に土地の高まりが削られた場所で、奈良時代の集落が広がっていた可能性が高い場所です。周辺の調査では奈良時代にこの地域で早くから条里制が施行されていたことがわかっています。奈良時代にこの地方に政権中央の進んだ制度を施行させた有力者が、祭祀に使用したものであると考えられます。

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鏡背

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鏡面

内区部分だけの小型海獣葡萄鏡は、これまでに全国で11点見つかっています。そのうち7点が奈良時代に都があった奈良県で、大阪府内では初の出土です。このように今回出土した鏡は、奈良時代に政権中央で行われた祭祀の広がりを考える上で全国でも貴重な資料であるといえます。

古墳時代のくらし

古墳時代前期~飛鳥時代初頭(約1800〜1400 年前)にかけての集落と田んぼがみつかりました。高まりに集落、浅い谷を田んぼとして土地利用を行っています。

田んぼに水を供給する水路もみつかっており、居住域や生産域を計画的に定めながら、古墳時代の人々が周辺の開発を進めたことが明らかになってきました。また、朝鮮半島との関係を示す土器も出土していますが、当時の人々の交流はどのようなものだったのでしょうか。

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古墳時代の景観概念図

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方形にめぐる溝(2-2 区、東から)

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集落の中の水路(2-2 区、東から)

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船材を用いた井戸(2-2 区、南から)

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船材を用いた井戸の底(2-2 区、南から)

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竪穴建物のカマド(2-2 区、北西から)

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井戸底のヒョウタンと土器(2-2 区、東から)

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柱穴(2-2 区、南から)

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古墳時代後期の水路(3区、東から)

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古墳時代後期の田んぼ(3区、東から)

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古墳時代後期の竪穴建物(2-2 区、南から)

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古墳時代前期の集落(1-3 区、東から)

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古墳時代前期の井戸から出土した土器(1-3 区、東から)

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古墳時代中期の井戸から出土した土器(4区、西から)

弥生時代のくらし I

洪水砂と生活痕跡

古墳時代前期の集落があった高まりの東側で弥生時代後期(約1900年前)の土坑や溝がみつかりました。

また、蛇行する川もみつかっています。この川の下流域となる調査地西側では、泥層と洪水砂が交互に堆積しており、不安定な環境が続いたものと考えられます。

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弥生時代後期初頭の川(1-3 区、南西から)

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洪水砂の中から出土した甕(かめ)(2-2 区、東から)

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弥生時代後期初頭の土坑(1-3 区、東から)

田んぼの風景

調査地の全域で、弥生時代中期後葉(約2000年前)の田んぼがみつかりました。田んぼは、傾斜する地形を巧みに利用したものです。

また、弥生時代中期中葉以前に堆積した洪水砂を盛って、高まりを造成しているところもありました。当時、このような作業は、手作業であったため、たいへんな重労働だったと思われます。

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弥生時代中期後葉の田んぼ(4区、南西から)

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弥生時代中期後葉の田んぼ(2-2 区、北東から)

弥生時代中期後葉の高まりと田んぼ(2-2 区、北東から)図・写真
高まりの周辺には、田んぼが広がっています。現在の棚田のような光景が広がっていました。

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高まりは人工的に造成されたものです。最も高くなるところには、水路が設けられいたことがわかりました。

弥生時代の集落

弥生時代中期後葉の田んぼより高いところでは、弥生時代中期中葉(約2100 年前)の集落がみつかりました。

幅0.2 ~ 1.0mの溝で囲まれており、何度も溝の掘り直しを行いながら、生活を営んでいたようです。

図・写真
弥生時代中期中葉の集落(4区、真上から)

溝の内側では、大小の穴が多数みつかりました。小さいものは柱穴が多く、中には腕の長さぐらいの深さまで掘削して柱を立てているものがありました。一方、大きいものは、井戸や水を溜める施設が多く、中には、溝と連結している穴もありました。穴の中からは、弥生土器の壺や甕が多数出土しました。

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柱穴(4区、南から)

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板材が出土した穴(4区)

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井戸から出土した弥生土器(4区、南から)

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甕や壺などが多数出土した穴(4区、北から)

溝と連結する土坑の中には、板材を杭で支えているものがありました。水の流れと直交するように立てられており、水流の緩衝剤のような役割を想定しています。

図・写真

図・写真
弥生時代の地層

弥生時代のくらし II

弥生時代中期前葉(約2400年前)の田んぼ

幅3~4mの水路を挟んで、田んぼがみつかりました。水路肩部の一方は、緩やかな斜面で、傾斜が変化するところにアゼを設けています。もう一方の肩部には、土手状に大きなアゼを設置していました。

田んぼは、廃絶時に水没したために、泥層でパックされていました。この泥の中に、高さが1cm にも満たないアゼがみつかるときもありました。

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弥生時代中期前葉の田んぼ(4区、西から)

壺をおさめた穴

弥生時代前期後葉(約2500年前)の田んぼ近くから、壺をおさめた穴がみつかりました。壺は口縁の部分がありませんでした。どのような目的で埋めたのでしょうか。

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弥生時代前期後葉の壺

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出土した時はバラバラでしたが、復元するとこんな形になりました。

結語

今回の調査では古墳時代~弥生時代を中心とする集落と田んぼが明らかとなりました。また、大阪府内で初めとなる小型海獣葡萄鏡が出土し、古代においても重要な成果を上げることができました。

調査地周辺では、縄文時代晩期以前には、地下5m以上に渡って泥層や砂層が交互に堆積し、人が住めない環境であったことがわかっています。

それ以降、幾度の災害を克服しながら、たゆみなく人々が営んだくらしの様子が発掘調査を通じて目に浮かびます。

図・写真
縄文時代晩期以前の様子(4区、南から)

図・写真
地層模式断面図

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