山科本願寺跡発掘調査(第18次調査)現地説明会 資料

2012年(平成24年)9月8日(土)
財団法人 京都市埋蔵文化財研究所

説明文

調査地京都市山科区西野山階町地内
調査期間2012年7月17日〜9月下旬(予定)
調査主体財団法人 京都市埋蔵文化財研究所

遺跡の概要

山科本願寺は、文明10年(1478)に浄土真宗中興の祖・蓮如上人により造営が開始された浄土真宗の本山で、寺域は堀と土塁で囲まれ、阿弥陀堂や御影堂のある「御本寺」、有力末寺の坊舎のある「内寺内」、門徒の居住区のある「外寺内」の三つの郭で構成され、壮大な規模を誇っていました。将軍家や有力武家をしのぐほど繁栄しましたが、天文元年(1532)に管領細川晴元率いる近江守護職六角定頼と法華宗・延暦寺の連合軍によって攻撃され、焼け落ちました。

今回の調査は、山科本願寺跡の18次調査になります。当地が「御本寺」の中心部に近い場所にあたることから、文化庁国庫補助を受けて、遺構の保存状態を確認するため1区と2区を設けて調査を行っています。

見つかった遺構

石風呂遺構

1区南半では、石風呂・カマド・三和土(たたき)・井戸1から成る一連の石風呂遺構が見つかりました。石風呂は地面から約1m掘り下げた半地下式構造で、南北約6m、東西は3m以上あります。北側が作業場を兼ねた前室、南側が石と粘土で固めたドーム状の天井がかかる蒸し風呂部分と考えられます。蒸し風呂部分は花崗岩の石組み、前室は河原石の石積みで東側には階段が付きます。石風呂の東には半地下式のカマドが位置します。作業場と燃焼室に分かれ、全長で南北2.5m、東西1.5m、深さは約1mあります。焚口と燃焼室は花崗岩と河原石の石組みで、この上に鉄釜を乗せて湯を沸かしたと考えられます。作業場には覆屋の壁土が焼けて倒れ込んでいます。カマドの南側は土間の三和土となっています。石風呂とカマドの北には井戸1があります。掘形の直径は約3m、深さは4m以上あり、石組みの井戸であったと考えられますが石は抜き取られていました。これら一連の石風呂遺構の東には塀の基礎と考えられる土坑が複数並んでいます。塀の東側では、昨年度の調査で見つかった坪庭の石組溝の延長部分の溝1が見つかりました。

炊事施設

1区北半は整地により南半より一段高くなっています。この高まり上では、多数の建物の礎石や柱穴と共に井戸2が見つかりました。円形の石組井戸で、掘形の直径は約1.8m、深さは4m以上あります。埋土から焼けた壁土や炭化米が多量に出土しました。井戸の西側で見つかった南北方向の溝2からも炭化米が出土しており、この高まり上には炊事に関わる施設があったと考えられます。また井戸2から出土した壁土は非常に分厚いことから土蔵の壁土と考えられ、付近に米蔵などが存在したと推測されます。

土塁

2区では「御本寺」の西端を限る土塁の裾部が見つかりました。

まとめ

今回見つかった石風呂遺構や炊事施設は、「御本寺」の中枢部に位置することから、宗主一族も使用した可能性が高く、山科本願寺にとって極めて重要な遺構と言えます。

また、昨年度までの調査成果と合わせると、調査地一帯は、阿弥陀堂や御影堂の裏手に存在したと考えられる宗主一族の居住施設や寺の実務を執る施設群が展開する本願寺の内向きの空間であることが確実となりました。これは山科本願寺の具体的な復元に大きく寄与する成果と言えます。

地図

地図

当時の山科本願寺を再現したイラスト
展示パネル
中央から左斜め下の緑の付箋の指す辺りが現在地

遺構図

写真


岩風呂(北から)

写真
カマド(北から)

展示パネルより
山口県 久賀の岩風呂(展示パネルより)

展示パネルより
京都府 八瀬釜風呂(展示パネルより)

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