お亀石古墳
現地説明会
平成14年2月10日
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 石棺
 各トレンチ
説明音声ファイル

古墳そばの看板より

古墳時代終末期の石棺式石室をもつ典型的な古墳で、直径十五メートル、高さ四メートル程度の円墳からなる。切石を布積みにした羨道(せんどう・石室の墓道)の正面に、直接家形石棺を安置した内部構造で、通有の横穴式石室のような玄室(げんしつ・棺をおさめる墓室)の構造を省略している。
 家形石棺の棺蓋に六個の縄掛突起があり、古くから露出していて亀の形ににているところからこの古墳の名が生じたのであろう。石身の側面に長方形の開口部が設けられ、それを塞ぐ角形の石蓋が遺存していることも珍らしい。これによって古墳を構築したのち遺体をおさめたことがわかる。
 石棺の材石は二上山産の凝灰岩で、羨道の切石には巨大な花崗岩を用い、豪族の墳墓であることを示している。この古墳の重要性は石棺の周囲に飛鳥時代の屋瓦を槨壁状に多数積み重ねていたことで、他に類を見ない。さらに瓦が古墳に近い新堂廃寺の百済系屋瓦と共通する事実から、被葬者が生前寺院の造建に関与した檀越(だんおつ・施主)であったと推測できる。
 近くの太子庁叡福寺の聖徳太子磯長墓が六ニ○年代に切石造りの横穴式石室として構築されたとすると、この古墳はそのやや後の七世紀前半に属するものとみられる。同種の内部構造をもつ古墳は河内南部に多く、このころ石川流域に多数居住した百済系渡来氏族との関係からも注目すべき遺跡である。

昭和五十六年三月三十一日 富田林市教育委員会