はじめに
キトラ古墳は、1978年頃にその存在が知られるようになった、7世紀後半から8世紀初め頃のいわゆる週末期の古墳です。1983年に横口式石槨内部をファイバースコープによって調査したところ(飛鳥保存顕彰会とNHK)、玄武(げんぷ)の壁画が発見され、高松塚古墳(明日香村平田、1972年に壁画発見、特別史跡)に次ぐ、飛鳥の壁画古墳として一躍有名となりました。
その後は、明日香村が中心となって遺跡の調査と保存か進められました。1997年には範囲確認のための発掘調査がおこなわれ、墳形と規模(上記)が判明しました。1998年3月、小型カメラによって石槨内部を再調査したところ、青龍(せいりゅう)・白虎(ぴゃっこ)と天文図が新たに発見されました。これを受けて、キトラ古墳は2000年11月に特別史跡(国宝に値する遺跡)に指定されたのです。2001年3月におこなわれた3度目の石棟内部調査では、壁画としてはわが国初の朱雀(すざく)が南壁で発見され、四神が揃ったのでした。
こうした一連の調査によって壁画と古墳の重要性が広く知られましたが、また、壁画自体が極めて危険な状態にあることもわかってきました。昨年度(2001年度)からは、文化庁がキトラ古墳の調査に直接関わることとなり、壁画と古墳そのものを保存するための委員会を設置して検討を始めました。この委員会での意見をふまえ、2001年12月には壁画が描かれている石榔内部の保存状態を記録するために高解像度デジタルカメラを石槨のなかに入れて撮影しました。この調査により、それまでわからなかった石榔の盗掘坑の状況がわかり、どのような保存処置ができるのか、も検討できるようになりました。
今年、文化庁、そしてその委託を受けた奈良文化財研究所は、古墳と壁画の保存に万全を期すために、まず石棟内部と同じ環境を保てる仮覆屋を設置して壁画を保全する計画をたてました。キトラ古墳の今回の調査は、この仮覆屋を建設するために必要な基礎的資料の収集、なかでも石櫛の南にある墓道に関して、その規模と構造を解明することを主な目的として調査に入りました。
調査の成果 別ウィンドウにパネルを表示する
調査では、まず、2001年3月と12月の内部調査前に発掘した探査坑を再発掘し、これを手がかりに東西4m×東側南北5m・西側南北3mの調査区を設定しました。横口式石榔南壁までは約1.3〜1.5mを隔てています。発掘調査の結果、盗掘坑と墓道を確認しました。
盗掘坑 すでに、2001年3月の明日香村教育委員会の発掘調査で確認されていたものです。今調査区北壁の断面で、東西幅約3m、深さ1.5mの規模です。盗掘坑(とうくつこう)の底近くには、盗掘時に破壊した、凝灰岩(ぎょうかいがん)製石槨石材の砕片が散在し、盗掘の様子を生々しく物語っています。1点ですが、やや大型の石材破片(長さ 25cm)も出土しました。埋土から瓦器(がき)(表面に炭素を吸着させた黒っぼいお椀)の破片が出土したので、盗掘の時期は平安時代末から鎌倉時代と推定できます。
墓 道 墓道(ぼどう)とは、横口式石槨(よこぐちしきせっかく)へ棺を搬入し、さらに南の閉塞石(石槨南壁)を設置するためにもうけられた通路状の施設のことです。
墓道は古墳の墳丘盛土から掘り込まれ、幅2.35~2.65m(底面で2.3〜2.45m)、調査区北辺での深さは1.5mです。この墓道は、東側で3.5m、西側で1.8mの長さ残っていました。西側で短いのは、古墳の西南部が後世に削られてしまったためです。今回の調査区は石槨南壁と1.3mを隔てるので、墓道の残存長は、東側で約5mと推算できます。西壁は真北より北で西に5度、東壁は北で西に11度振れているので、ごくわずかですが南で広くなっています。
墓道の床面は、最も高い北側(石槨側)0.3mだけがほぼ水平で、それから南側は緩く南に傾斜します。水平な北側床面の高さは推定される横口式石槨床面の高さとほぼ等しいので、このままの高さで石槨まで延びていると推測してよいでしょう。
墓道は、下のほうが堅い版築(はんちく)土で埋められ、その上には多少突き固めてはありますがやや軟質の土を重ねています。埋土は墳丘(ふんきゅう)の基盤層(版築土層)や積み土(墳丘土)とは土質に違いがあるので、後から埋めたことがわかります。埋土からは、土師器(はじき)と須恵器(すえき)の小さな破片が出土しましたが、時期を特定できるものではありませんでした。
コロのレール痕跡 墓道の床面には、南北方向に3条(あるいは4条か)のコロのレール痕跡がみつかりました。コロのレールとは、閉塞石(南側側壁)を運び上げたときのコロ(転)の下にそれと直交して置いた木材を指し、それを抜き取った痕跡が残っていました。床面に張られた茶褐色の粘質土とよく似た土で埋められ、東西の2条は幅約15cm、心々距離(溝の中心同士を測った距離)は1.35m(内法の距離は1.2m)です。中央の1条は、土層堆積観察用の畦に大半が隠れていますが、幅約60cmあります。レール痕跡の方位は、真北から西に8度振れています。これは墓道の東西両壁の振れを平均した値に一致し、横口式石槨の方位を反映している可能性があります。
墓道と石榔との関係 横口式石槨の南西隅を開口している盗掘坑の位置とこれに沿って挿入されたガイドパイプ(径15cm)の位置から判断して、墓道は横口式石槨の南側正面に正しく位置すると判断できます。それ以外の詳細は、残された石槨との取り付き部の調査に期待したいと思います。
まとめ
終末期古墳は調査された数が少ないので、築造方法の解明につながる成果があがりました。墓道が途中から傾斜している例はほかになく、キトラ古墳の特徴といえそうです。今後おこなわれる、古墳と石槨内部の壁画保存にむけて、貴重なデータをえることができました。
参考(終末期古墳で墓道を検出した代表例)
○高松塚古墳(明日香村平田) 墓道全長5.5m、幅は石槨前面で2.4m、南端で約3m。床面に4条のコロのレール痕跡。レールは角材。レール痕跡(溝)の幅・深さとも20cm。石槨の前面左右に柱穴、中央に杭の痕跡があった。墓道は版築土で埋められる。
○マルコ山古墳(明日香村真弓・地ノ窪) 墓道幅2.17m、高さ0.98m。中央に礫を詰めた排水用暗渠(幅46cm、深さ26cm)があり、床面にはレール痕跡が4条ある。墓道は版築土で埋められる。
○石のカラト古墳(奈良市神功1丁目) 墓道幅約3mだが、石槨との取り付き部で狭くなる。床面にコロのレール痕跡が2条。長さ4mを確認。満幅30cm、心々距離0.7m。このレール痕跡を埋め戻した後に、石榔南端から2.6mの所に、礫敷き(0.8×1.1m)を設置する。
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