調査地 :奈良県高市郡明日香村大字岡小字八条395番地
調査原因:信者会館改築に伴う事前調査
調査面積:約1600平方メートル
調査期間:2002年2月4日〜3月31日(第18次調査)
2002年4月2日〜現在継続中(第19次調査)
1 はじめに
平成4年に砂岩の石垣が検出された洒船石遺跡は、その構造や位置、使用されている石材などから『日本書紀』の斉明2年の条に記されている「宮の東の山の石垣」ではないかと推定されています。平成12年には酒船石の北方の谷部で亀形石造物を中心とした導水施設や石敷が発見され注目されました。調査地は酒船石から南西約150mの場所にあり東から伸びる丘陵裾部に位置しています。周辺ではこれまでの調査で、庇をもつ大型掘立柱建物や南北方向の石組溝などが検出されています。溝からは「霊亀弐年」(716年)の木簡が出土し、奈良時代まで存続していたことがわかっています。また、調査地の西方では飛鳥京跡として昭和34年より橿原考古学研究所が継続的に調査を実施しており、数時期の宮殿遺構を確認しています。このうち最も新しい遺構は天武天皇の飛鳥浄御原宮と推定されています。
今回の調査地は洒船石遺跡第9次調査区の南側にあたることから、石組溝等の延長部の検出が予測され、また、飛鳥京跡の東外郭塀の外側にあたり、東側の土地利用状況についての解明が期待されました。
2 検出遺構
今回検出した主な遺構には、石組溝、石組小溝、素掘溝、掘立柱建物などがあります。南北石組溝は改修されながらも3時期の変遷がみられます。以下、遺構の概要についてみていくことにしましょう。
石組溝(1)
(7世紀中〜後半) 側石には長さ1m大の石材を使用しており、2〜3段積み上げています。底には拳大の川原石を敷き詰めています。幅は1.8〜2.5m、深さ1mです。
石組溝(2)
(7世紀後半〜8世紀初)石組溝(1)の溝幅を狭めながら西側石は石組溝(1)の基底石を利用してその上に人頭大の川原石を2〜3段分積み上げています。東側石は新たに積まれたもので部分的に砂岩が転用されています。幅1.3m、深さ60cmです。
石組溝(3)
(8世紀前半)石組溝(2)の西側に新たに設置された石組溝です。側石には人頭大の川原石を4〜5段積み上げていますが、石組溝(1)・(2)のものと比べると積み方が乱雑です。
この溝は途中、石組溝(2)を踏襲して北流します。幅1.3m深さ60cmです。
石組小溝
石組溝(1)の東側で検出した幅40cm、深さ20cmの南北溝です。側石には人頭大の川原石を並べていますが大半は抜き取られています。
砂岩区画
石組溝(2)東岸に作られた砂岩の区画です。長さ2.5m、幅約30cmでコ字形に砂岩切石を並べており、水辺に伴う施設と考えられます。
掘立柱建物
丘陵先端の高い位置につくられた掘立柱建物です。一辺約40cmの柱穴が4基あり、柱間寸法は南北4.8×東西2.4mです。
掘立柱塀
東から伸びる丘陵の裾部で検出した南北塀です。柱穴は5基検出し、一辺40cmの掘形で直径20cmの柱痕跡がみつかりました。柱間寸法は1.8m(6尺)です。
3 出土遺物
今回の調査では、土師器・須恵器・瓦・瓦器・陶磁器・木製品・木簡・砂岩切石・榛原石・漆付着土器・墨書土器・獣脚硯・金環・獣骨などが出土しています。
4 まとめ
今回の調査では飛鳥京跡東外郭塀の外側で、33mにわたって大規模な石組溝を検出することができました。この溝に繋がる溝は酒船石遺跡第9・10・15次調査や、さらに北方の飛鳥寺南方遺跡でも見つかっており、300m以上にも及ぶことが明らかとなりました。また、第18次調査で石組溝(1)の幅が2.5mあることが判明しており、溝幅に多少の変化はあるものの飛鳥地域では最大級の規模の石組溝です。この石組溝は飛鳥京跡の東側で山側からくる水を受け、北へと流す基幹排水路であったと考えられます。石組溝は数回にわたり改修されて奈良時代まで存続しており、都が移っても一機に廃絶しておらず都市機能が維持されていたことが明らかとなりました。
出土遺物では木簡が石組溝(1)・(2)から200点以上出土し、特に「刀支県主(ときのあがたぬし)」や「牟義君(むぎのきみ)」といった美濃国に関する木簡が多いこと、また荷札木簡がなく、文書木簡しか出土していないことが注目されます。飛鳥京跡東外郭塀の外側にも役所などの施設が存在した可能性が高くなってきました。
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