尾根先端を削って造られた中期前半の大型円墳です。写真:古墳遠景(北西上空から)
北近畿豊岡自動車道建設のため、昨年度から兵庫県教育委員会が発掘調査を実施しています。
1月〜3月は第2主体部全体と第1主体部に落ち込んでいた家形埴輪、それと墳丘の一部の調査を実施しました。
5月からは、中心部分の第1主体部全体と道路予定地内の墳丘全体、それから、道路予定地外の墳丘の部分的調査を実施しています。このたび、墳丘の大きさや中心主体の内容がほぼ判明しましたので、説明いたします。
A.墳丘の大きさ 写真:墳丘北側斜面
茶すり山古墳は直径約86mの大きな円墳で、高さは約18mあり、墳丘は2段に造られています。
墳頂の平らな部分は楕円形で、東西約35m、南北約30mと広いことが特徴です。
16世紀には砦とりでとして利用され、その時に墳頂部の削平や墳丘斜面の整形などが行われたと想定されます。
B.墳丘の外部施設(葺石と埴輪)
1.葺石
墳丘斜面には地山の角礫を使った葺石ふきいしが貼られていましたが、砦の時の整形や流失のため、残っている部分は多くありません。ただし、北東側の一部では大型の石を使っているせいか、ややまとまって残っています。
2.埴輪 写真:谷部円筒埴輪出土状況
墳頂平坦部の外周に沿って円筒埴輪・朝顔形埴輪を巡らせていたようですが、倒壊・転落や削平により、下端部が10ヶ所ほど残っていたに過ぎません。
ただし、北側墳丘斜面には小さな谷状部分があり、転落した状態で円筒・朝顔形埴輪が出土し、5本程度がほぼ完形に復元できそうです。
北側段築平坦面でも埴輪下端部を検出しました。1箇所のみですが、もとは一列にずらりと並べられていたと想定されます。
C.主体部 写真:古墳墳頂部全景(東から)
墳頂平坦部には2箇所の埋葬部分(主体部)があり、大型の第1主体部とその北隣の第2主体部です。
第2主体部は3月に調査を終了し、第1主体部は調査継続中で、どちらも盗据されていませんでした。
1.第1主体部
2段に振られた墓壙(墓穴)は大型の長方形で、東西約13.6m、南北約10.1mもあります。その中央に長さ約8.5m、幅約1mの組み合わせ式箱形木棺を安置していました。
木棺が腐ってできた溝状落ち込みから大小の家形埴輪などが出土し、古墳築造時には各種の形象埴輪が主体部上に立て並べられていたと推定されます。 写真:家形埴輪出土状況(合成写真・北から)
木棺内からは銅鏡3面をはじめ、甲冑かっちゅう類、多量の刀剣類・鉄鏃てつぞく(矢じり)、盾、玉類、鉄製工具類や刀剣装(飾)具の漆膜など、多量の副葬品が埋納された当時の配置のまま、足の踏み場もないほど密集して検出されました。
木棺は底板が無く、棺の内面には赤色の顔料が塗られていました。棺の側板の高さは約80〜90cmもあり、木棺の蓋板や側板の外側は厚さ3〜5cmの粘土で覆っていたようで、木棺の腐朽に伴って棺内全体にその粘土が平らに落ち込んでいました。
(1)主室
木棺内は仕切り板によって3つの部屋に分けられており、中央東寄りにある主室の底には長さ2.2mにわたって数cm大の川原石が敷き詰められ(礫床れきしょう)、遺体の埋葬部分になっています。頭位は東で、頭部のすぐ東側に3面の銅鏡が並べられていました。頭の上両側にあった2面の鏡(1・2号鏡)は鏡背面(文様のある側)を上にして平らに置かれたように出土し、残りの1面(3号鏡)は遺体頭部の向かって右上にあり、鏡面を内側にして棺に立てかけた状態で出土しました。
1・2号鏡および遺体頭部を刀・剣によって「コ」の字形に囲むように並べており、特徴のある配置方法を採用しています。また、頭部左側に竪櫛が2点あります。なお、遺体頭部付近には朱が集中してみられます。
遺体の両脇には、刀剣を数本ずつ並べ、先をすべて足側に向けています。これらの刀剣には装具そうぐが付けられ、その漆膜が残っています。中には直弧文ちょっこもんを施しているものもあります。主室内の刀剣数は約18本です。
1号鏡は頭部に向かって左上側にあり、直径16.2cmの彷製ぼうせい(日本製)「変形盤龍鏡ばんりゅうきょう」です。鏡の周囲には碧玉へきぎょく製の勾玉まがたま1点をはじめ、碧玉製などの菅玉くだたまが約10数点散らばっています。
2号鏡は1号鏡の右隣にある彷製「対置式二神四獣鏡たいちしきにしんしじゅうきょう」で、面径は15.7cmあります。2号鏡脇でも管玉が
数点あり、1・2号鏡の間にはガラス製小玉が非常に多く集中しています。
3号鏡は面径16.5cmの「内行花文鏡ないこうかもんきょう」で、その細部の特徴から、中国大陸で魏晋ぎしん代に作られ、舶載はくさい(輸入)品である可能性が高いと考えられます。
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1号鏡:変形盤龍鏡 |
2号鏡:対置式二神四獣鏡 |
3号鏡:内行花文鏡 |
(2)東副室
主室の頭部(東)側に仕切板を隔て、長さ約2mの副葬品庫があります。西端に短甲たんこう(三角板革綴かわとじ短甲)・頸甲あかべよろい・肩甲かたよろいといった甲よろい類類と、胄かぶと2点(衝角付しょうかくつき胄)の甲冑かっちゅうセットが置かれています。その東には刀剣類9本と鉄鏃数点のほか、鉄製柄付手斧ちょうな2点、鉄斧てっぷ4点があります。また、これらの副葬品の上には盾たて(後述)が乗せられていたようです。
(3)西副室
主室の足(西)側にも仕切板を隔てて副葬品庫があります。長さは約4mで、東から刀・剣・鉾ほこなどの刀剣類群(20本以上)、鉄鏃群(100数十本)、盾と続いています。
刀剣類のうち鉾以外はすべて先を西側に向けており、刀剣装具の漆膜が数多く残っています。また、柄に鉄の輸を付けた「環頭大刀」が1本含まれています。
鉄鏃群は副葬時には矢束として置かれていたようで、先をすべて東側に向け、20本程度の束で4〜5群に分かれており、刀剣類群の上にも2〜3群あります。
鉄鏃群の西側には鉄器類はなく、朱塗りの盾が2枚置かれています。盾は革などに漆を塗ったもののようで、薄い漆膜のみを検出することができました。羽状や菱形の模様が残っており、鋸歯文きょしもんも認められることから盾と判断しています。盾と同じ模様の漆膜は鉄鏃群や刀剣類群の上、主室の刀剣類・礫床の上にも小さな破片で見つかっていることから、東副室も含めた棺内全体に盾が並べ置かれていたことが想定されます。
なお、棺外の副葬品については未調査のため不明ですが、現在の地表より約25cm下に粘土を薄く敷いた埋葬時の面があることを確認していますので、調査の進展により、棺外副葬品が検出される可能性があります。
2.第2主体部
第1主体部と平行方向で北側にあります。5月に発表済みですが、以下に概略を記しておきます。
約7.5×3.7mの墓壙ぼこう(墓穴)の中央に長さ約4mの箱形木棺を収めていました。第1主体部と同様、約2.5mの主室の両側に副室を設けています。
東副室では副葬品として鉄斧・鋤先・鎌・刀子などの鉄製農工具類53点以上が集中し、西副室では鉄鏃14本が束になって出土しました。
小口板で仕切られた主室内の底には、第1主体部と同様、5cm程度の円礫が2.2mの長さで敷き詰められ、遺体埋葬部分となっています。
東端には枕石が置かれ、櫛が出土しました。首にあたる部分からは勾玉・管玉、胸の部分には銅鏡1面があり、その上や周辺にはガラス小玉が400点以上散っており、遺体の両脇には大刀が各1本置かれていました。
鏡・ガラス小玉 |
鏡は直径14.8cmの彷製「ニ仙四獣鏡にせんしじゅうきょう」で、文様側を上にして置かれていました。ガラス小玉は直径2〜3mmで、鏡の上で連なった状態で認められました。 |
勾玉・管玉 |
勾玉は2点、管玉は12点あり、碧玉製管玉が2点、他は淡緑色の軟質石材製となっています。 |
櫛 |
長さ約7cmの複合の櫛で、葬送用と考えられているものです。 |
大刀 |
南側の刀は長さ101cmで、北側は長さ81cmあります。 |
標石 |
墓壙東側両隅に大石があり、墓の標石と考えられます。 |
D.まとめ
(1) 墳丘直径は、円墳としては奈良県富雄丸山古墳と並んで近畿地方最大規模となり、全国でも6番目、西日本では第2位の大きさです。
(2) 第1主体部の墓壙・棺はともに中期古墳としては全国最大級で、棺は大阪府和泉黄金塚古墳と同長です。
(3) 第1主体部から出土した鏡のうち、2面の彷製鏡は古墳時代前期の中央政権(ヤマト政権)のもとで製作され、配布されたと考えられているものです。茶すり山古墳では、出土位置から鏡を丁重に扱っており、前回、埴輪から中央政権との強い結びつきを想定しましたが、今回、それを補強する形となりました。
(4) 第1主体部の副葬品には、刀剣類や鉄鏃が非常に数多く、盾や甲冑類も複数認められることから、被葬者は武人的色彩が強いことがうかがえます。
(5) 第1主体部から3面の鏡が出土していますが、中期古墳としては量が多い方になります。
(6) 副葬品の種類としては、柄付手斧が特筆できますが、それ以外に特に際立ったものはなく、全国共通の普遍的な様相を示しています。
(7) 主室に川原石を敷く(礫床)のは、古墳時代前期以降の但馬・丹後地方に特徴的に認められる地域色の強いもので、箱形木棺を採用している点は但馬の伝統的地域色が強いものと思われます。
(8)京都府綾部市にあり、舞鶴自動車道建設によって調査され、トンネルで保存された史跡、私市丸山きさいちまるやま古墳よりも16m大きく、主体部の規模・副葬品の量ともに凌駕りょうがしており、近畿地方北部を代表する古墳になります。
(9)茶すり山古墳の周辺では、南但馬最古の大型円墳である若水かわすAll号墳(山東町所在)をはじめ、前期後半の城の山古墳(和田山町所在)などが調査され、その内容が明らかとなっています。また、前方後円墳では中期初頭の池田古墳(和田山町所在)や中期後半の船宮ふなのみや古墳(朝来町所在)があり、古墳時代の有力な首長墓が和田山町とその周辺に集中しており、首長墓が連続して造られている地域となっています。しかも、中期前半の茶すり山古墳の内容によって、中央政権との結びつきの変化やその内容をより詳しく考えることができるようになりました。
茶すり山古墳の調査結果は、南但馬地域の古墳時代史のみならず、日本国家形成期の周辺地域の歴史を考える上で重要な資料になると思われます。
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