膳所城下町遺跡ぜぜじょうかまちいせきは大津市膳所二丁目地先、海賀県立膳所高等学校内に所在する遺跡です。
膳所城は慶長6年(1601)、徳川家康によって築かれ、譜代の戸田一酉とだかずあきが初代膳所藩主として入城している城で、調査地点はその城下町の一角に当たります。湖岸にある膳所城の本丸から約500m西側に位置するこの場所は、元禄15年(1702)に描かれた絵図によると付近には侍屋敷が建ち並んでいたことがわかります。そして文化5年(1808)には、膳所藩の藩校「遵義堂じゅんぎどう」がこの地に創設されています。県立膳所高等学校の前身の県立第二尋常中学校はその跡地に設立されており、校内にある明治40年(1907)建立の石碑「校地記」がその旧跡を今に伝えています。
今回の発掘調査は、県立膳所高等学校の改築に伴う事前調査で、滋賀県教育委員会を調査主体、財団法人滋賀県文化財保護協会を調査機関として、平成14年4月から実施しています。これまでの嗣査で、近世の膳所城下町関連の遺構のほかに、聖武天皇が天平12年(740)に近江禾津あわづ(=大津市粟津から膳所の一帯)に設けた頓宮とんぐう(仮宮)と考えられる建物跡が発見されました。これは古代の頓宮の主要建物の構造が判明した初めての例といえるものです。
1 発掘調査の概略
発掘調査地点は、琵琶湖に流れ込む相模川が形成した扇状地の扇央部付近の小高い土地にあたります。平成13年度に実施した試掘調査で、江戸時代の膳所城下町に関連する遺構のほかに、7世紀後半頃の土器や柱穴などの遣構が検出されており、この地に古代の遺跡が立地していることが確認されていました。
発掘調査は平成14年4月に、グラウンドの西南部分から着手し、調査区を拡張しながら現在も継続して実施しています。調査途中の現段階(8月初旬現在)においては、江戸時代の膳所城下町関連の遺構のほかに、奈良時代の掘立柱建物ほったてばしらたてもの3棟が確認されています。3棟の掘立柱建物は、東西7間けん(約20.8m)×南北4間けん(約11.9m)の規模をもつ建物(SBl)、東西2間(約5.9m)×南北7間(約20.8m)の建物(SB2)、東西2間(約5.9m)×南北1間(約3.Om)以上の建物(SB3)で、SBlが8世紀前半(奈良時代前半)、SB2とSB3が8世紀後半(奈良時代後半)のものと考えられます。このうち、SBlと呼称している建物は、宮殿級の規模と構造を備えた大型建物であり、後述するとおり、聖武天皇が天平12年(740)の東国行幸の際に近江国志賀郡禾津に設けた頓宮(天皇の行幸に際して、その行く先々に設けられる仮宮)と考えられるものです。
2 大型掘立柱建物(SBl)の概略
大型掘立柱建物(SBl)は、東西7間けん(約20.8m)×南北4間けん(約11.9m)の二面庇にめんぴさし建物(東西7間×南北2間の身舎もやに室内空間を広げるための庇ひさしを南北両面に持つ古代建築の構造)で、床面積は約247.5平方メートルにも及ぶものです。柱穴も一辺約1.6mを測る大きなもので、直径40〜50cmの太い柱が「版築ばんちく」という柱周りに土を少しづつ入れて突き固めていく土木技術によって据えられています。
建物の時期は、柱穴から7世紀後半から8世紀中頃の土器が出土し、8世紀後半の土器や瓦は含まれていないこと、建築足場柱穴が7世紀後半の遺構を掘り込んでいることなどから8世紀前半と判断されます。さらに、この建物は建築後の比較的早い時期に、柱を手際よく抜き取って解体撤去しているようです。そのことは、柱を抜き取るために掘られた穴が柱の直径よりもわずかに大きい程度で、柱周りの版築部分をさほど痛めずに柱が抜き取られていることなどから伺うことができます。そして柱を抜き取ったあとは、約10cm大の円礫を多く含んだ柔らかな土で埋められており、踏みしめられたりせず、無造作に埋め戻されたような印象が感じられます。
このほか、この建物の特徴として建物柱列たてものはしられつの外周と内側、柱通りはしらどおりの中間にあたる規則的な位置に建築足場を据え付けた痕跡と考えられる柱穴が検出されていることが上げられます。建物の外周の足場柱穴は建物の柱筋はしらすじの10尺(約3m)外側の位置にあり、そのことから8尺程度(約2.4m)の軒先のささきの広がりをもつ雄大な建物であったことが伺われます。
3 大型掘立柱建物(SBl)の評価
大型掘立柱建物(SBl)は、その柱の規模や柱間の広さ、建物の規模と二面庇という構造など、宮殿級の建物と判断されるものです。瓦の出土はほとんどなく、板葺きもしくは檜皮葺ひわだぷきの建物であることや、周辺から遺物の出土がほとんど見られないことなども、この建物が天皇の宮に関わるものである可能性を示す特徴であるといえます。そして、柱の抜き取られている状況からは、8世紀前半に建築されたこの建物は恒久的なものとして利用されることはなく、きわめて短期間のうちにその役目を終えて解体された建物(施設)である可能性が高いものと考えられます。
以上の考古学的な調査成果をふまえてた上で、文献資料(『続日本紀』)に照らしてみると、この建物は聖武天皇天平12年(740)条に記載のある禾津頓宮あわづとんぐうと考えることができ、古代の頓宮の主要建物の構造が判明した初めての例として位置づけることができます。
4 聖武天皇の行幸と禾津頓宮
『続日本紀』によれば、聖武天皇は天平12(740)年10月29日に平城京を後にし、伊賀、伊勢、美濃、近江(横川よかわ〈米原町〉、犬上、蒲生、野洲、禾津)、山背を巡歴し最後に恭仁京くにきょうに遷都を行っています。この行幸のコースは聖武天皇の曾祖父にあたる天武天皇が壬申の乱じんしんのらんの際に進軍した経路とほぼ一致し、途中で伊勢神宮に奉幣するなど、天武天皇の行動を追体験している観が見受けられるものです。
聖武天皇は行幸の途中で橘諸兄たちばなのもろえを恭仁京建設のために先発させ、12月11日に壬申の乱で天武天皇の勝利を決定づけた重要な地にある禾津頓宮に至っています。聖武天皇はここに3日間滞在し、天智天皇の勅願の寺院である志賀山寺しがやまでら(崇福寺すうふくじ)の仏を礼拝しており、天智天皇への慰霊のためとも思える行動をとっています。
今回発見された建物は、その規模などから、行幸出発の時にはその建設準備の指示がなされていたものと考えられます。そのことは、天平12年の行幸が、藤原広嗣ふじわらひろつぐの動乱からの避難などといった消極的な意味合いのものではなく、旧勢力間との対立の渦巻く平城京を捨て、天皇の治世の理想を具現化するために恭仁京への遷都を断行することを前提に周到に準備された聖武天皇の行動であったことを示すものであり、古代政治史を解明していくうえで極めて注目すべき意味合いを持つ考古学的資料といえるものです。
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