恭仁宮跡ってどんなところ?
恭仁宮は、相楽郡加茂町の瓶原(みかのはら)に造られた奈良時代の都です。
今からおよそ1300年前の和銅3(710)年に、元明(げんめい)天皇によって平城京に都が造られました。それから30年後の天平1(てんぴょう)12(740)年の12月、聖武(しょうむ)天皇が新しい都の造営を始めます。これが「恭仁宮」です。
宮の中には、主に天皇が暮らし儀式も行われる所(内裏(だいり))や、政治など国家の儀式が行われる所(大極殿・朝堂院)(だいごくでん、ちょうどういん)、役人たちが仕事を行う役所(官衛(かんが))など、国のなかでも最も重要な施設が造られました。恭仁宮は聖武天皇の時代に一時期ですが、国の首都となっていたのです。そのわずか4年後の天平16年(744)年には、都は大阪の難波宮(なにわのみや)へと移り、さらには再び平城京へと戻されました。恭仁宮は短い役目を終え、その後、山城(山背)国分寺へと生まれ変わりました。(地図を表示)
恭仁宮関係年表
和銅3(710)年 |
平城京に都が移される |
和銅5(712)年 |
『古事記』編さんされる |
養老4(720)年 |
『日本書紀』編さんされる |
養老7(723)年 |
三世一身の法が定められる |
神亀元(724)年 |
聖武天皇が即位する |
天平12(740)年 |
九州で藤凍広嗣が反乱を起こす |
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恭仁宮に都が移される |
天平13年(741)年 |
諸国に国分寺・国分尼寺の建立が命じられる |
天平14年(742)年 |
紫香楽宮の造営が始まる |
天平15年(743)年 |
墾田永年私財法が出される |
天平16年(744)年 |
都が恭仁宮から難波宮に移される |
天平17年(745)年 |
再び都が平城京に移される |
天平勝宝4(752)年 |
東大寺大仏の開眼の儀式が行なわれる |
延暦3(784)年 |
長岡京に都が移される |
延暦13(794)年 |
平安京に都が移される |
※恭仁宮に都があった期間
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これまでの調査で分かっていること
京都府教育委員会では、昭和48年度から恭仁宮跡の発掘調査を始めました。これまでに内裏や大極殿、朝堂院などの建物跡などがいくつか見つかっていて、宮の中がどのようになっていたのかも段々と分かってきました。(第1図)
恭仁宮は東西に約580m、南北に約750mの大きさで広がり、周りを大きな土塀(大垣(おおがき))で囲んでいたことも分かりました。また、太極殿の北側には内裏が造られますが、恭仁宮ではこの場所に東西に2つ並ぶ塀で囲まれた区画があることがわかり、これはその他の都では見られない恭仁宮だけのものです。今はこの2つの区画をそれぞれ「内裏西地区」一「内裏東地区」と呼んでいます。(西地区と東地区のパネル写真を表示)
これまでの発掘調査で「内裏地区」について分かっていることは次の2つのことでした。
(1)大きさは、「西地区」が東西約98m・南北約128m、・「東地区」は北側で見つかっている板塀(掘立柱塀)を北の端と考えれば南北が約139mで、東西は東側の囲いが見つかっていないため、はっきりとは分かっていませんでした。
(2)「西地区」は周りを全て板塀(掘立柱塀)で囲んでいましたが、「東地区」は、北側が板塀(掘立柱塀)で、西側と南側が土塀(築地塀(ついじぺい))で囲まれていました。 今年度は、この「内裏東地区」の大きさをはっきりさせることを目的に、東側の囲いがあると考えられる3か所で発掘調査をしました。
今回の調査で分かったこと
第1調査地(第3図)
ここは「内裏東地区」の北東の隅(第2図)にあたると考えられます。
ここでは、北側の板塀(掘立柱塀)の東端の柱跡を1つと、東側を囲む土塀(築地塀)の東側の溝1本が見つかりました。(板塀(掘立柱塀)のイメージ図を表示)
柱穴は一辺が1.2m程の隅が丸くなった四角形をしていて、真ん中に柱を立てていたことが分かりました。溝は幅が約20cmで、長さ4mにわたって見つかりました。北の端は新しい時代に掘られた溝によって壊されていましたが、ここより北側には続いていきませんでした。
第2調査地(第3図)
ここは「内裏東地区」の東側の囲い(第2図)のあるところです。
ちょうど真ん中で南北を向く溝1本が見つかりました。
幅はおよそ50cmで、長さは6Ocmだけ見つかりました。この溝は第1調査地で見つかった溝にまっすぐに延びているので、同じく東側を囲む土塀(築地塀)の東側の溝になります。
第1・2調査地ともに東側を囲む土塀(築地塀)はすでに削られてしまったようで、全く残っていませんでした。
第3調査地(第4図)
ここは、「内幕東地区」の南東の隅(第2図)にあたります。
調査の結果、南側と東側を取り囲んでいた土塀(築地堀)の基礎工事の跡が見つかりました。ほぼ直角に曲がっていて、南側では3.6mの幅があり、全体では19mの長さで続いていましたが、それぞれが西側や北側へと延びていると考えられます。
土塀(築地塀)を建てるしっかりとした土台を造るために、地面を溝のように掘り下げてその中で土を突き固めた下側の部分(掘込み地業(ほりこみじぎょう))と、その上に土を盛り上げた上側の部分(基壇積み土(きだんつみつち))とで出来ています。下側は20〜60cm位の深さに掘られていて、上側は40cm位の高さに盛り上げられています。(土塀(築地塀)のイメージ図を表示)
残念な事に上に造られた土塀(築地塀)はすっかりと削られて残っていませんでした。
おわりに
今回の発掘調査によって分かったことは次のことです。
(1)「内裏東地区」の東側を囲むのは土塀(築地塀)であったことが分かりました。
(2)「内裏東地区」の東西の大きさが分かりました。(西地区と東地区のパネル写真を表示)
最後に「内裏東地区」と「内裏西地区」の違いをまとめると、
大きさ |
「東地区」 東西約109m・南北約139m
(※北側で見つかっている板塀を北の囲いと考えれば)
「西地区」 東西約98m・南北約128m
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周辺の囲い |
「東地区」 北側が板塀(掘立柱塀)で、東・西・南側が土塀(築地塀)
「西地区」 全てが板塀(掘立柱塀) |
以上のように、今は仮に同じ「内裏地区」としていますが、「東地区」は東・西・南側の3つが土塀(築地塀)で、北側が板塀(掘立柱塀)で囲まれていて、「西地区」が全て板塀(掘立柱塀)で囲まれていることと大きな違いがあります。(土塀(築地塀)のイメージ図を表示/板塀(掘立柱塀)のイメージ図を表示)
また、「東地区」の囲いは東・西・南側の3つが土塀(築地塀)なのに、北側だけがそれらとは違う板塀(掘立柱塀)で、本当にここが北の端なのか新しい疑問が生まれてきましだ。ですから、北の端は見つかっている板塀(掘立柱塀)よりさらに広がることも考えられます。
「東地区」は「西地区」に比べて、囲いの遣り方もしっかりとしていて立派ですし、大きさもー固りほど大き<、また今後の発掘調査の結果によってはさらに大き<広がる可能性もあります。一部しか発掘調査を行っていませんが、内側に建てられていた建物にも東西両地区では、その造られていた場所や形に違いのあることが分かっています。
この違いは、両地区に暮らしていた人の力の差によるものかもしれません。今後、十分に考えていかなければならない問題です。
最後になりましたが、今回の調査に際し、調査に参加していただいた皆さん、各方面からご指導・ご協力いただいた方々に心より感謝いたします。
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