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恭仁宮跡

説明文恭仁宮全体図今年度調査地位置図第1・第2調査地で見つかったもの第3調査地で見つかったもの

平成14年度恭仁宮跡(くにきゅうあと)発掘調査
現地説明会資料
京都府教育委員会
平成14年12月7日

恭仁宮跡ってどんなところ?

恭仁宮は、相楽郡加茂町の瓶原(みかのはら)に造られた奈良時代の都です。
 今からおよそ1300年前の和銅3(710)年に、元明(げんめい)天皇によって平城京に都が造られました。それから30年後の天平1(てんぴょう)12(740)年の12月、聖武(しょうむ)天皇が新しい都の造営を始めます。これが「恭仁宮」です。
 宮の中には、主に天皇が暮らし儀式も行われる所(内裏(だいり))や、政治など国家の儀式が行われる所(大極殿・朝堂院)(だいごくでん、ちょうどういん)、役人たちが仕事を行う役所(官衛(かんが))など、国のなかでも最も重要な施設が造られました。恭仁宮は聖武天皇の時代に一時期ですが、国の首都となっていたのです。そのわずか4年後の天平16年(744)年には、都は大阪の難波宮(なにわのみや)へと移り、さらには再び平城京へと戻されました。恭仁宮は短い役目を終え、その後、山城(山背)国分寺へと生まれ変わりました。(
地図を表示

恭仁宮関係年表

和銅3(710)年 平城京に都が移される
和銅5(712)年 『古事記』編さんされる
養老4(720)年 『日本書紀』編さんされる
養老7(723)年 三世一身の法が定められる
神亀元(724)年 聖武天皇が即位する
天平12(740)年 九州で藤凍広嗣が反乱を起こす
恭仁宮に都が移される
天平13年(741)年 諸国に国分寺・国分尼寺の建立が命じられる
天平14年(742)年 紫香楽宮の造営が始まる
天平15年(743)年 墾田永年私財法が出される
天平16年(744)年 都が恭仁宮から難波宮に移される
天平17年(745)年 再び都が平城京に移される
天平勝宝4(752)年 東大寺大仏の開眼の儀式が行なわれる
延暦3(784)年 長岡京に都が移される
延暦13(794)年 平安京に都が移される
※恭仁宮に都があった期間

これまでの調査で分かっていること

 京都府教育委員会では、昭和48年度から恭仁宮跡の発掘調査を始めました。これまでに内裏や大極殿、朝堂院などの建物跡などがいくつか見つかっていて、宮の中がどのようになっていたのかも段々と分かってきました。(第1図
 恭仁宮は東西に約580m、南北に約750mの大きさで広がり、周りを大きな土塀(大垣(おおがき))で囲んでいたことも分かりました。また、太極殿の北側には内裏が造られますが、恭仁宮ではこの場所に東西に2つ並ぶ塀で囲まれた区画があることがわかり、これはその他の都では見られない恭仁宮だけのものです。今はこの2つの区画をそれぞれ「内裏西地区」一「内裏東地区」と呼んでいます。(
西地区と東地区のパネル写真を表示
 これまでの発掘調査で「内裏地区」について分かっていることは次の2つのことでした。
(1)大きさは、「西地区」が東西約98m・南北約128m、・「東地区」は北側で見つかっている板塀(掘立柱塀)を北の端と考えれば南北が約139mで、東西は東側の囲いが見つかっていないため、はっきりとは分かっていませんでした。
(2)「西地区」は周りを全て板塀(掘立柱塀)で囲んでいましたが、「東地区」は、北側が板塀(掘立柱塀)で、西側と南側が土塀(築地塀(ついじぺい))で囲まれていました。 今年度は、この「内裏東地区」の大きさをはっきりさせることを目的に、東側の囲いがあると考えられる3か所で発掘調査をしました。

今回の調査で分かったこと

第1調査地(第3図
 ここは「内裏東地区」の北東の隅(第2図)にあたると考えられます。
 ここでは、
北側の板塀(掘立柱塀)の東端の柱跡を1つと、東側を囲む土塀(築地塀)の東側の溝1本が見つかりました。(板塀(掘立柱塀)のイメージ図を表示
 柱穴は一辺が1.2m程の隅が丸くなった四角形をしていて、真ん中に柱を立てていたことが分かりました。溝は幅が約20cmで、長さ4mにわたって見つかりました。北の端は新しい時代に掘られた溝によって壊されていましたが、ここより北側には続いていきませんでした。

第2調査地(第3図
 ここは「内裏東地区」の東側の囲い(第2図)のあるところです。
 ちょうど真ん中で
南北を向く溝1本が見つかりました。
 幅はおよそ50cmで、長さは6Ocmだけ見つかりました。この溝は第1調査地で見つかった溝にまっすぐに延びているので、同じく東側を囲む土塀(築地塀)の東側の溝になります。
 第1・2調査地ともに東側を囲む土塀(築地塀)はすでに削られてしまったようで、全く残っていませんでした。

第3調査地(第4図)
 ここは、「内幕東地区」の南東の隅(第2図)にあたります。
 調査の結果、南側と東側を取り囲んでいた
土塀(築地堀)の基礎工事の跡が見つかりました。ほぼ直角に曲がっていて、南側では3.6mの幅があり、全体では19mの長さで続いていましたが、それぞれが西側や北側へと延びていると考えられます。
 土塀(築地塀)を建てるしっかりとした土台を造るために、地面を溝のように掘り下げてその中で土を突き固めた下側の部分(掘込み地業(ほりこみじぎょう))と、その上に土を盛り上げた上側の部分(基壇積み土(きだんつみつち))とで出来ています。下側は20〜60cm位の深さに掘られていて、上側は40cm位の高さに盛り上げられています。(
土塀(築地塀)のイメージ図を表示
 残念な事に上に造られた土塀(築地塀)はすっかりと削られて残っていませんでした。

おわりに

今回の発掘調査によって分かったことは次のことです。
(1)「内裏東地区」の東側を囲むのは土塀(築地塀)であったことが分かりました。
(2)「内裏東地区」の東西の大きさが分かりました。(
西地区と東地区のパネル写真を表示
最後に「内裏東地区」と「内裏西地区」の違いをまとめると、

大きさ

「東地区」 東西約109m・南北約139m
      (※北側で見つかっている板塀を北の囲いと考えれば)
「西地区」 東西約98m・南北約128m

周辺の囲い 「東地区」 北側が板塀(掘立柱塀)で、東・西・南側が土塀(築地塀)
「西地区」 全てが板塀(掘立柱塀)

 以上のように、今は仮に同じ「内裏地区」としていますが、「東地区」は東・西・南側の3つが土塀(築地塀)で、北側が板塀(掘立柱塀)で囲まれていて、「西地区」が全て板塀(掘立柱塀)で囲まれていることと大きな違いがあります。(土塀(築地塀)のイメージ図を表示板塀(掘立柱塀)のイメージ図を表示
 また、「東地区」の囲いは東・西・南側の3つが土塀(築地塀)なのに、北側だけがそれらとは違う板塀(掘立柱塀)で、本当にここが北の端なのか新しい疑問が生まれてきましだ。ですから、北の端は見つかっている板塀(掘立柱塀)よりさらに広がることも考えられます。
 「東地区」は「西地区」に比べて、囲いの遣り方もしっかりとしていて立派ですし、大きさもー固りほど大き<、また今後の発掘調査の結果によってはさらに大き<広がる可能性もあります。一部しか発掘調査を行っていませんが、内側に建てられていた建物にも東西両地区では、その造られていた場所や形に違いのあることが分かっています。
 この違いは、両地区に暮らしていた人の力の差によるものかもしれません。今後、十分に考えていかなければならない問題です。

 最後になりましたが、今回の調査に際し、調査に参加していただいた皆さん、各方面からご指導・ご協力いただいた方々に心より感謝いたします。

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