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鍛冶屋敷遺跡

説明文紫香楽宮関係遺跡鍛冶屋敷遺跡主要遺構配置図参考・梵鐘製作の様子

鍛冶屋敷遺跡現地説明会資料
平成14年12月14日(土)
12月15日(日)
滋賀県教育委員会
財団法人滋賀県文化財保護協会

遺跡の概要
紫香楽宮と甲賀寺一
 紫香楽宮は天平15〜17(743〜745)年の間に聖武天皇によって営まれた宮です。20世紀前半から半世紀以上に及んだ所在地論争は、平成12年度の発掘調査によって宮町遺跡が紫香楽宮で、現在の史跡紫香楽宮跡は甲賀寺であると考えられるに至りました。
 紫音楽宮の日本史上での位置づけについての論点は多岐にわたりますが、その中の大きな一つが、天平15年の「大仏造顕の詔」です。『続日本紀』によると紫音楽で発せられたこの詔には、国中の銅を尽くして仏像を作り、大きな山を削って仏殿を構えると宣言されています。この詔の4日後には甲賀寺の造成が開始され、翌16年には仏像の「体骨柱」が建てられたことを記しています。つまり、「大仏造顕の詔」をうけて、甲賀寺の造営が開始され、巨大な金銅慮舎那仏の製作が開始されたとみることができるのです。紫香楽宮が仏都と呼ばれるゆえんであり、甲賀寺が紫香楽宮の象徴的存在であったといえるのです。しかし、聖武天皇は天平17年には紫香楽宮を放棄して平城宮に戻っており、甲賀寺での金銅慮舎那仏像の製作は頓挫し、東大寺において受け継がれることになりました。
 ただし、天平17年5月に聖武天皇が紫香楽を去った後も甲賀寺の造営は続けられていたようです。8世紀後半には近江国分寺になっていたとも考えられています。
一鍛冶屋敷遺跡の既往の調査一
 鍛冶屋敷遺跡は、甲賀寺の東北方向約400mの丘陵縁辺部に位置します。炉壁などが採集されており、江戸時代から甲賀寺に関わる鋳造工房であったことが想定されていました。第2名神高速道路路線上で平成12年度に実施した試掘調査においても、奈良時代中頃の土器類と共に銅の溶解炉、銅の湯玉が出土しており、鋳造工房が存在したことが判明していました。

鍛冶屋敷遺跡の発掘調査成果

 平成14年8月から約2000平方メートルを対象に実施した発掘調査においては、試掘調査の内容と同様の奈良時代中頃の鋳造工房の姿がより具体的に明らかになりました。
 現時点で検出している主な遺構は、溶解炉9基(既に破壊されているものの存在が推定できるものが5基)、鋳込み遺構11基、建物5棟です。(主要遺構配置図
 遺構の前後関係から大きく3つの段階を経ていることがわかります。
 第1段階は、一辺1mの掘方に直径30cm程度の柱を据えた1×8間(4m×30m)以上の南北に細長い掘立柱建物が作られています。柱掘方には遺物が混入していないことや、遺構の前後関係からみても鍛冶屋敷遺跡において最初に構築された遺構である可能性が高いものです。この建物の果たした機能は、現時点では明らかではありませんが、次年度以降の調査成果をふまえて検討する必要があります。
 第2段階は、黄色土の盛り土によって第1段階の据立柱建物を埋め込んで、溶解炉と鋳込み遺構をセットにして配置するものです。約7m間隔で直径Im弱の溶解炉と一辺1m以内の円形・方形・六角形の鋳込み遺構がセットとなって8基が50m以上にわたり、約1.5mの間隔をあけて東西2列に整然と配置されています。なお、溶解炉の間には1×2間(2〜2.5m ×2.4〜3.Om)の掘立柱建物が配置されています。この掘立柱建物には炭などが置かれていたようです。この様に整然と鋳造関係の遺構が検出された事例は今までに
なく、注目されます。
 第3段階は、第2段階の鋳込み遺構を破壊しつつ、一辺4.4〜5.0mの大型の鋳込み遺構が設けられます。
南側は六角形の台座、北側が梵鐘を鋳造していたことが判明しました。六角形の台座は、一辺約1.0m、内径は約2.0mです。梵鐘は、直径1.8mで、高さを推定すると 2.7m程度のものとなります。奈良時代までの梵鐘の中では東大寺の梵鐘に次ぐ大きさです。この梵鐘は甲賀寺鐘楼にかけられたものと想定できます。また、中型(中子)が落下した状態で出土しており、他に類例がないことから注目されます。なお、これらの遺構は、下部のみ鋳型で埋められていますが、1m以上にわたって自然に堆積していったことがわかります。このことから、作業後に埋められることなく放置されていたことがわかり、鍛冶屋敷遺跡での鋳造作業の最終段階であったと考えられます。梵鐘鋳造遺構の調査事例はこれまでにもありますが、その他の大型の鋳造品を製作した工房は現時点で類例が無く、注目されます。
 年代を推定し得る資料は決して多くありませんが、出土する土器類は奈良時代中頃のものであり、搬入品が大半を占めることから紫香楽宮が機能していた時期(740〜760年台)にほぼ限定できます。

調査成果のまとめ

 鍛冶屋敷遺跡は、甲賀寺において用いられる大型の銅製品を製作する官営工房であったことが明らかとなりました。この様な状況で生産を行っていることがわかる調査事例は今までになく、古代の鋳造技術や官営工房の具体的なあり方を考える上で非常に重要な知見を得たことになります。また、巨大な慮舎那仏を安置すべく聖武天皇によって発願された甲賀寺の造営過程を知る貴重な手がかりを示すものです。ただし、約2,000平方メートルの調査区の中に大型の銅製品を製作する工房の一部のみの存在を明らかにしたに過ぎません。寺院造営にあたっては、その他の金属工房や木工、漆工、瓦工など数多くの部門が存在していたことを考えると、甲賀寺造営工房そのものは更に広がっていたことが容易に推測できます。

説明文紫香楽宮関係遺跡鍛冶屋敷遺跡主要遺構配置図参考・梵鐘製作の様子

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