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綾部山39号墳(墳墓)

説明文遺跡平面図想像図埋葬遺構復元図

綾部山39号墳
現地説明会資料
2003年3月22日
御津町教育委員会

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1.はじめに

綾部山39号墳(墳墓)は綾部山の中で39番目に発見された遺跡です。昨年の平成14年1月に行った『黒部綾部山線道路改良工事に伴う試掘調査』により発見されました。もともと、綾部山古墳群は5世紀(中期)〜7世紀(終末期)にかけての古墳群と言われており、発見されたこの遺跡も『5世紀頃の古墳である』と考えて本発掘調査に入りました。しかしそれは、とんでもない間違いでした。この道跡はもっと以前の3世紀代のもので、古墳と言うべきか弥生時代の墳丘墓と言うべきか、判断しにくい極めて微妙な時代の貴重な遺跡であるということが判明したからです。ちなみに、権現山51号墳よりも古い時期のものです。

2.立地

綾部山39号墳(墳墓)は瀬戸内海を眺望することができる海岸沿い小高い尾根上(標高27m)に立地しています。ここから南側の海を見渡すと、向こうには大阪・淡路島・徳島県・香川県・岡山の牛窓か見え、瀬戸内の海上交通を強く意識してこの場所に造られています。ここに葬られた人物(首長)は、まだ山陽道が整備されていなかったこの時代、重要であった瀬戸内の海上交通に関与した人であったと考えられます。

3.墳丘の形状

境丘にはハッキリとした高まりがなく、直径10〜11mのいびつな円形状の列石(20センチ程度の川原石と割石)が外側をまわっていて、これが墳丘の裾(すそ)になると考えています。また、墳丘を築造するための盛土は、最高でも厚さ10センチ程度で、列石のところでその盛土はなくなるようです。綾部山39号墳(墳墓)は墳丘の盛上の大きさや墳形にはあまりこだわらず、ハッキリとした区画をしない弥生時代の墳丘墓の要素を強くもっているといえます。もう一つ、忘れてはならない重要なことは、現在の道路部分である北西側に、突出部(前方部?)をもつ可能生があり、前方後円形になる可能性が考えられるということです。

4.埋葬主体部

東西4.6m、南北3.5mの石で囲まれた隅丸方形をしている埋葬主体部は『石囲い(石塁壁)・竪穴式石榔・木棺』の3重の構造になっています。3年前の平成12年に奈良県桜井市で発掘された『ホケノ山古墳』(3世紀中ごろ)があります。この古墳は『最古の古墳』として有名な遺跡です。『ホケノ山古墳』の構造は『石囲い・木榔・木棺』になっており、石榔と木榔とが違うだけで、この遺跡と非常に似た構造になっています。『ホケノ山古墳』では、この構造を『石囲い木榔』と言っています。これから考えると綾部山39号墳(墳丘墓)は『石囲い石榔』と言えます。このような3重構造は、兵庫県で初めての発見で、岡山県でもまだ見つかっていません。また、南側にのみもう一列、列石が走っています。内側の石囲い(石塁壁)とちがい乱雑な積み方をしており、一体、これがどういう意味を持つものか、どういう構造になっているのか、現在のところ不明です。今後の課題てす。

5.石囲い(石塁壁)

『竪穴式石榔(たてあなしきせっかく)』を石で囲む遺構を『石囲い』または『石塁壁(せきるいへき)』といいます。『石囲い』はほとんどが川原石で長軸を中心部方向に向けて、石をもたせかけるようにきれいに丁寧に整然と積んであります。やや外側に傾斜して構築しているために、石榔との間に出来るスペースには、川原石を詰めていました。
『石囲い』という構造は非常にめずらしい構造で、まだあまり見つかっていません。この構造は瀬戸内海沿岸各地などで、弥生時代後期から古墳時代初めにかけての墳丘墓や古墳に見られる特有のものです。四国の阿讃地方(阿波・讃岐)で発達したものと考えられており、綾部山39号墳(墳墓)はその文化を取り入れたものです。

6.竪穴式石槨

『石囲い(石塁壁)で使用されている石はほとんどが川原石ですが、竪穴式石槨に使用されている石は角が取れた板石です。使うところを明らかに意識的にわけていたようです。右榔内側の規模は、長さ約255cm・東小口幅95cm・西小口幅90cm・板石6段積みと考えて深さ約70cmです。側壁の断面形状はほぼ真っ直ぐに立ち上がる状態でどちらかといえば外に少し広かっているようにも見えます。これらの特徴は弥生時代の竪穴式石室(榔)の特徴をもっているものと言えます。

7.木棺

石榔床面には2センチ〜8センチの小円礫が敷かれている礫床(れきしょう)になっています。礫床が平になっていることから、棺(ひつぎ)は箱形木棺と考えています。そして木棺のあった場所には朱が付着し、痕跡から棺の大きさは長さ約190cm・東小口幅約80cm・西小口幅杓76cmです。東側が幅の広いことや、副葬品の位置から考えると頭位は東向きに葬られていたと推察できます。

8.副葬品

副葬品として鏡・鉄製品・砥石が出土しています。被葬者の頭部右横付近には『舶載鏡』(はくさいきょう)と思われる割れたがボロボロの状態で2片出土しました。この鏡については棺内に副葬していたのか、或いは棺上に置いていたかわかりませんが、弥生時代の副葬方法である『破鏡』(はきょう)の可能性が高いものと考えています。この鏡の種類は『画文帯神獣鏡』(がもんたいしんじゅうきょう)と思われます。直径は10.4cmで『ホケノ山古墳』など、ほかの遺跡の出土例と比べても、かなり小型です。また『画文帯神獣鏡』は権現山51号墳で出土した三角縁神獣鏡よりも、古い時代の鏡と言われています。鉄製品は棺内の被葬者左足付近に長さ17cmのものが1点見つかっています。この鉄製品はヤリガンナかモリ・ヤスの可能性があります。次に砥石があります。棺外の頭上部に置かれてあり、極めて精緻な仕上げ用の砥石です。意図的に二つに折られているようで、葬送儀礼として使われたのでしょうか。

9.上部構造

石槨の上部構造を推察すると、今回の調査で天井石にできる大きさの石が1枚も出てきていないこともあり、木蓋であったと考えています。また、その上部には小さな円礫を敷いてつくった『隆起小円礫堆』(りゅうきしょうえんれきたい)かあったものと思われます。それは、コンテナ約20箱分という大量の小円礫が出ているからで、中には朱が付いている円礫が見つかっており、上面を粘っていたと考えられます。また、この土中から讃岐系の土器片1点と在地の土器片2点が出土しています。これだけ立派なものを造っているのに異常と思えるほど土器かありません。これは播磨地方の特徴ですが、葬送儀礼に讃岐地方から運ばれてきた土器が使われていたことは注目に値します。

10.おわりに

綾部山39号墳(墳墓)は3世紀のものと考えられます。そして、この時期は、『魏志倭人伝』に書かれている『邪馬台国の卑弥呼』の時代です。そこには、倭(わ)は大変乱れたが、クニグニは邪馬台国の卑弥呼を選んで、30程のクニの連合国家の王としたとされています。
この遺跡の被葬者は、邪馬台国の時代、西隣の吉備地方と連合(仲良く)するのではなく、海を隔てた、阿讃地方と連合(仲良く)していたと考えられます〔阿讃播連合〔あさんばんれんごう〕。それは、次のことからです。

  1. この時代吉備では、特殊器台・特殊壷という土器をお供えしてお祭りをしていますが、播磨の墳丘墓からは吉備の土器が出土しないこと。
  2. 『石囲い』は、阿波・讃岐で考え出され発達していったものと考えられていますが、その『石囲い』を採用しているということ。
  3. 本墳から讃岐の土で作られた土器が出土しました。これは葬式に讃岐からはるばる海を渡って土器を持ってお参りに釆たと考えられること。

この遺跡は限りなく、弥生時代の墳丘墓の作り方によって造られています。
ホケノ山古墳の影響を受けて造られたのか!それとも逆に影響を与えた墳丘墓か!つまり言い換えると限りなく弥生の要素を備える古墳か!それとも、弥生時代最後の墳丘墓か!時代の境目に位置するとても貴重な数少ない遺跡です。

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