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平城第360次調査 第一次大極殿院南面築地回廊の調査

説明文平城宮図中枢部既調査区図参考図調査遺構図各時期の遺構

2003年8月23日
平城第360次調査 第一次大極殿院南面築地回廊の調査
現地説明会資料
独立行政法人文化財研究所 奈良文化財研究所
平城宮跡発掘調査部

1.調査の経緯と経過

 奈良時代の前半には、平城宮の中央、朱雀門の真北に大極殿が存在していました。大極殿は、天皇即位や元日朝賀、外国使の謁見など、もっとも重要な国家的儀式が行われた建物です。奈良時代後半には、大極殿の機能は東の地区へと移るため、奈良時代前半の太極殿を第一次大極殿と称しています。第一次大極殿は、東西178m、南北318mの区画施設で囲まれており、この区画内部を第一次太極殿院と称しています。なおこの地区は、奈良時代後半には「西宮」という宮殿として整備され、さらに平安時代初めには平城太上天皇の居所として用いられたと推測されています(図1:奈良時代前半奈良時代後半)。
 第一次大極殿院南面築地回廊の調査は、東南隅(41次調査)・太極殿院南門および東楼(77次調査)・西南隅(296次調査)・西楼(337次調査)などで実施されています(図2)。今回の調査は、第一次太極殿院南辺地区の変遷過程を明らかにすることを目的としています。具体的には、次の諸点が課題となります。第1は、南面築地回廊の柱位置は推定通りか。第2は、基壇の廃絶過程にかかわり、その後に造られる広場景観がどのような変遷をたどったかを明らかにすること。以上の2点です。
 今回の調査地は、296次調査(1998〜99年)と337次調査(2001〜02年)との両調査区に挟まれた、南面築地回廊推定地を対象としており、調査面積は600平米(南北24m×東西25m)です(図2参照)。今年6月に予備作業をはじめ、7月2日から調査を開始しました。調査は現在も継続中です。

2.発掘調査の成果

(1)検出遺構

第一次大極殿院の時代(奈良時代初め〜奈良時代前半)〔図4−A〕

【築地回廊に伴う遺構】
 第一次大極殿院は、築地回廊により区画されていました。築地回廊とは、中心に築地塀をつくり、その両側に柱を立てて屋根を支え、その下を通路とする区画施設です(参考図)。今回の調査では、太極殿院南面築地回廊の一部を、四間分(約18.3m分)確認しました。
 築地回廊の基壇は版築により造成されており、現状で50cm余り残存しています。ただ、削平をうけているため、築地塀本体の痕跡は認められませんでした。基壇上で、回廊を支える柱の礎石抜取穴を南北2列、計10箇所検出しました(うち2箇所は296次調査区)。桁行・梁行の柱間は、それぞれ、約4.6m等間、約7m等間と復原され、従来の復原案と矛盾しません。
 基壇の南北では、屋根からの水をうける雨落溝が見つかりました。北側の雨落溝は、溝の北端にこぶし大の見切り石を並べて、北側に広がる広場との境界としています。南側の雨落溝に相当する位置では、石を詰めた状態の溝が検出されましたが、奈良時代初め、遷都当初のものではない可能性があります。なお、基壇と雨落溝は、改修されたあとがみられます。

【内庭の遺構】
 築地回廊で区画された院の内側は、小石を敷き詰めた広場で儀式の場に用いられていました。今回の調査でも、直径1cm程度の小石を敷き詰めた広場の舗装面を確認しました。なお、隣接地の調査では、この小石の下層にも、これより古い内庭の小石敷の存在が確認されています。

築地回廊をこわす時期(奈良時代後半:天平勝宝5年(753)頃)図4-B
 東の地区に新たに太極殿が造られ、もと第一次太極殿があった場所には、「西宮」と呼ばれる宮殿が造られました。「西宮」の南を限る区画施設は、大極殿院南面築地回廊よりも北側に造られたため(図1(奈良時代前半奈良時代後半)参照)、第一次太極殿院の施設は取りこわされ、基壇も化粧石がはずされ、上部が削られたと考えられます。
 築地回廊の解体にかかわる遺構として、礎石を抜き取った痕跡がみつかりました。加えて、築地回廊の北側で検出された瓦だまりは、屋根の解体作業に伴うものと推測されます。回廊に葺かれていた瓦を周辺に捨てたものでしょう。出土した瓦の年代観は、この推測を裏付けています。

「西宮」前面広場の時代(奈良時代後半以降)〔図4−C〕

 第一次大極殿院の施設が解体され、新しい宮殿「西宮」が造られたのち、その南面の築地回廊との間は、礫を敷き詰めた広場として整備されました。今回の調査でも、第一次大極殿院の時代に造成された回廊基壇の上部を削平し、そこから北側へ広がる、直径5cm程度の礫を敷きつめた広場の舗装面を、約14mにわたって検出しました。
 第一次大極殿院の時代に造成された南面築地回廊基壇南側の一段低い場所にも、礫が敷きつめられています。この礫は、基壇が北側へ削り取られる以前に、つまり奈良時代後半に敷かれたものである可能性が高くなりました。
近世の遺構
 築地回廊基壇上の土坑:遺物がごく少ないため性格は不明ですが、江戸時代の焼き物が出土しました。

(2)出土遺物

瓦だまりから、大量の瓦が出土しました。その多くは、第一次太極殿院の築地回廊に葺かれた瓦と推測されます。
 礫敷からも瓦が多数出土しています。これも第一次大極殿院の築地回廊などに葺かれた瓦と考えられます。
土器・土製品:埴輪・土師器・須恵器・瓦器・陶磁器が少量出土しています。いずれも細片であり、その多くは「西宮」前面広場の時代の礫面より上の土層から出土しました。なお礫敷から出土した土器は、いずれも奈良時代の土師器と須恵器です。
銭貨:築地回廊基壇北側の礫敷広場から、永楽通賓(西暦1408年初鋳)が出土しました。
礫敷広場が完全に埋没するまでの期間が、比較的長かったことを物語ります。

3.まとめ

 今回の調査成果は、次の2点にまとめられます。

(1)第一次大極殿院南面築地回廊の柱位置は、推定通りの位置から検出されました。南面築地回廊のほぼ全面についての調査が完了しましたが、これまでの成果をあらためて確認できました。

(2)南面築地回廊が解体されたのち、回廊の北側は従来の見解通り礫敷の広場であることが確認されました。また、基壇南側の一段低い場所の礫敷部分も、奈良時代後半のものである可能性が高まりました。

 

説明文平城宮図中枢部既調査区図参考図調査遺構図各時期の遺構

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