配付資料
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楠・荒田町遺跡
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※下記の文、写真、図は、すべて当日の配付資料からの引用です。
発掘調査現地説明会資料 |
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1.はじめに 楠・荒田町遺跡がある神戸市中央区楠町から兵庫区荒田町一帯は、平安時代末期には、平氏一門の別邸が存在し、また、治承4年(1180)6月に平清盛が都を遷したとされる福原京(福原行宮 ふくはらあんぐう)の有力な候補地の一つです。今回の発掘調査は神戸大学医学部附属病院の立体駐車場整備事業にともなって、行ってきたものです。 2.調査の概要 2本の壕は、平行して、東西方向に約39mにわたって延びています。壕と壕との間は広いところでも1m程度しかなく、2本の壕を平行して設けた二重壕であると考えられます。 北側の壕からは、土師器(はじき)の皿や瓦器(がき)と呼ばれる黒色の土器の椀・皿、中国製の白磁碗、青磁碗・皿、須恵器の鉢などの遺物がまとまって出土しています。南側の壕からも、同じような遺物が出土していますが、北側の壕ほど多くは出土していません。 3.まとめ この調査から何がわかったのか、どんなことが想定できるのでしょうか。 また、屋敷の規模についても同様に不明ですが、少なくとも1辺が39mを越える壕で囲まれた大規模な邸宅が想定できます。瓦がほとんど出土していないことから、瓦葺きの屋根ではなく、槍皮(ひわだ)葺きあるいは板葺きの建物であったと考えられます。 壕内から出土した遺物から、この屋敷は12世紀の後半から13世紀の前半までは建っていたと考えられます。まさに、清盛が福原に都を遷した時期とちょうど重なります。屋敷の主については、京都系め土師器皿が多く出土したことから、京都に普段住んでいる身分の高い人が考えられます。具体的には、この調査地点の西にある荒田八幡神社付近に平清盛の弟にあたる平頼盛(よりもり)の邸宅があったと伝えられていることから、頼盛邸であった可能性が高い、と考えられます。 最後に、ニ重壕で囲まれた屋敷について触れておきます。二重壕というのは本来、合戦の際に敵の侵入を防御することを目的に巡らせるもので、近畿地方でも、合戦が頻繁に行われる戦国時代には多く作られるようになります。しかし、平安時代後半にまで遡るものとしては、三重県の伊勢地方にある雲出島貫(くもでしまぬき)遺跡で、ここで見つかったものと良く似た構造の二重の溝で囲まれた屋敷が見つかっています。伊勢は平清盛の先祖伊勢平氏の根拠地であり、雲出島貫遺跡の主も平氏に関係する人物と考えられています。 このことから、二重濠で囲まれた屋敷は平氏と関連が深く、また、貴族の邸宅から武士の館へと移って行く、過渡期の姿を反映したものとして注目されます。 関連年表
福原京 治承4年(1180)6月、平清盛は、突如、都を京から、摂津国福原荘に遷(うつ)します。しかし、にわかの遷都(せんと)であったため、内裏(だいり)などの建物はなく、平氏一門の邸宅が仮の内裏とされました。これを一般に福原京と呼んでいます。最初、頼盛邸が安徳天皇の内裏となります。清盛はすぐに本格的な都の造営を命じ、和田の松原の西野に和田京が計画されます。しかし、その後起こる源平の争乱のなかで、新京の計画は挫折し、半年後の11月には都は再び京に遷されます。
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