TOP
配付資料
写真館
ムービー
音声ファイル
楠・荒田町遺跡

※下記の文、写真、図は、すべて当日の配付資料からの引用です。

発掘調査現地説明会資料
平成15年12月14日
兵庫県教育委員会
埋蔵文化財調査事務所

1.はじめに

 楠・荒田町遺跡がある神戸市中央区楠町から兵庫区荒田町一帯は、平安時代末期には、平氏一門の別邸が存在し、また、治承4年(1180)6月に平清盛が都を遷したとされる福原京(福原行宮 ふくはらあんぐう)の有力な候補地の一つです。今回の発掘調査は神戸大学医学部附属病院の立体駐車場整備事業にともなって、行ってきたものです。
 今年の夏の調査では、大型の礎盤石をすえた櫓(やぐら)と考えられる建物跡が発見されており、それに引き続いて今回の調査では、12世紀後半頃の屋敷を取り囲む、2本の壕が発見されました。

2.調査の概要

 2本の壕は、平行して、東西方向に約39mにわたって延びています。壕と壕との間は広いところでも1m程度しかなく、2本の壕を平行して設けた二重壕であると考えられます。
北側の壕は幅約2.7m、深さ約1.7mの規模で、断面の形がX字状の薬研壕(やげんぼり)と坪ばれる形をしていますが、南側の壕は幅約1.8m、深さ約1.6mで断面形がU字状を呈する箱壕(はこぼり)になっています。北側の壕の底付近には水が一時流れた堆積が見られますが、南側の壕にはほとんど水が流れた様子はありません。

 北側の壕からは、土師器(はじき)の皿や瓦器(がき)と呼ばれる黒色の土器の椀・皿、中国製の白磁碗、青磁碗・皿、須恵器の鉢などの遺物がまとまって出土しています。南側の壕からも、同じような遺物が出土していますが、北側の壕ほど多くは出土していません。
 遺物の中で、最も多く出土しているものは土師器の皿です。一見、なんのへんてつもない素焼きの皿ですが、これは、当時、京の都で大量に使われていた京都系土師器と呼ばれるもので、主に貴族の宴会などに使用されたものと考えられています。また、その形や特徴から、12世紀後半から13世紀のはじめ頃のものと推定されます。
 今回の調査では、同時代の小規模な掘立柱建物や、さらに古い古墳時代の須恵器や弥生土器も見つかっています。

3.まとめ

 この調査から何がわかったのか、どんなことが想定できるのでしょうか。
 今回の調査では、薬研壕と箱壕と言う2種類の違った形の壕で二重に囲まれた屋敷の一部が発見されました。残念ながら、壕の角が見つかっていないので、壕がどちらの方向に曲がるのかはわかりません。北側で行った調査で、櫓(やぐら)ではないかと考えられる建物跡が見つかっていることや、土器などの遺物が北側の壕で多く出土していることから、屋敷は壕の北側にあったと推定されます。

 また、屋敷の規模についても同様に不明ですが、少なくとも1辺が39mを越える壕で囲まれた大規模な邸宅が想定できます。瓦がほとんど出土していないことから、瓦葺きの屋根ではなく、槍皮(ひわだ)葺きあるいは板葺きの建物であったと考えられます。

 壕内から出土した遺物から、この屋敷は12世紀の後半から13世紀の前半までは建っていたと考えられます。まさに、清盛が福原に都を遷した時期とちょうど重なります。屋敷の主については、京都系め土師器皿が多く出土したことから、京都に普段住んでいる身分の高い人が考えられます。具体的には、この調査地点の西にある荒田八幡神社付近に平清盛の弟にあたる平頼盛(よりもり)の邸宅があったと伝えられていることから、頼盛邸であった可能性が高い、と考えられます。

 最後に、ニ重壕で囲まれた屋敷について触れておきます。二重壕というのは本来、合戦の際に敵の侵入を防御することを目的に巡らせるもので、近畿地方でも、合戦が頻繁に行われる戦国時代には多く作られるようになります。しかし、平安時代後半にまで遡るものとしては、三重県の伊勢地方にある雲出島貫(くもでしまぬき)遺跡で、ここで見つかったものと良く似た構造の二重の溝で囲まれた屋敷が見つかっています。伊勢は平清盛の先祖伊勢平氏の根拠地であり、雲出島貫遺跡の主も平氏に関係する人物と考えられています。

 このことから、二重濠で囲まれた屋敷は平氏と関連が深く、また、貴族の邸宅から武士の館へと移って行く、過渡期の姿を反映したものとして注目されます。

関連年表

保元元年(1156) 7月、平清盛、播磨守に任ぜられる。
嘉応元年(1169) 3月、平清盛、福原山荘において千僧供養を行い、後白河法皇これに臨幸する。
嘉応二年(1170) 9月、後白河法皇、平清盛の福原山荘に赴いて宋人を見る。
承安四年(1174) 3月、後白河法皇、平清盛の福原山荘に臨幸する。
治承四年(1180)

2月、平清盛、大輪田泊の修築を計画する。
3月、高倉上皇、厳島参詣の途次、福原に宿泊し、頼盛邸で「かさがけやぶさめ」を見物。
6月、平清盛、摂津国福原に都を遷す。
11月、平清盛、都を京に復する。

養和元年(1181) 1月、平清盛没する。(64)
寿永二年(1183) 平家の都落ち。額盛は脱落。福原に火をかける。
元暦元年(1184) 1月、平宗盛ら、摂津福原に至り、一ノ谷に城郭を構える。
2月、源義経、平氏を一ノ谷に攻めて敗走させる。
4月、源頼朝、平頼盛に、播磨、但馬、淡路その他の荘園34箇所を返還する。
文治元年(1185) 3月、源義経、平氏を長門壇ノ浦に破り、平氏は滅亡する。

福原京

 治承4年(1180)6月、平清盛は、突如、都を京から、摂津国福原荘に遷(うつ)します。しかし、にわかの遷都(せんと)であったため、内裏(だいり)などの建物はなく、平氏一門の邸宅が仮の内裏とされました。これを一般に福原京と呼んでいます。最初、頼盛邸が安徳天皇の内裏となります。清盛はすぐに本格的な都の造営を命じ、和田の松原の西野に和田京が計画されます。しかし、その後起こる源平の争乱のなかで、新京の計画は挫折し、半年後の11月には都は再び京に遷されます。


北壕の土器出土状況

TOP
配付資料
写真館
ムービー
音声ファイル