配付資料
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長岡宮朝堂院北方官衙・森本遺跡
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|説明文|調査地の位置|基本層序の模式図|建物の構造|調査地平面図|調査地周辺のようす|建物配置図|
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1.遺跡の立地 この調査地は長岡宮大極殿(だいごくでん)や朝堂院のある阪急西向日駅周辺(標高約32m)とくらべると、ここは標高約19.5mですので、ずいぶん低い場所であるように感じます。しかし、まだここは低地(沖積面(ちゅうせきめん))ではなく、段丘の上です。段丘とは、過去50万年〜2・3万年前のあいだにかけて断層運動によって隆起した地形のことです。足下の黄色っぼい粘土〜砂礫によって段丘を形づくられています。長岡京はその名前が示す通り、都の中心部がこの段丘(長岡)の上にあります。なぜこの場所が都として選択されたのかを知ることも重要ですが、いずれの時代の遺跡についても、どのような環境・地形条件のもとで遺跡が残存(人間が活動)したかを知ることは、自分たちの足下を理解するという点で重要だと思います。 2.中世〜近世 たくさんの溝が見つかりました。これらは水田耕作や裏作のために繰り返し掘られてきた溝です。一見なんでもない溝ですが、では、どのようにして、段丘上であるこの地に水田をおこなうための水を引くことができたのでしょうか?その答えは、調査地から離れた丘陵上にあります。「はり湖池」などの溜池ができてはじめて段丘上の水田開発が可能になったと考えられています。調査した溝の中からは、鎌倉時代(13世紀後半頃)の瓦器椀(がきわん)と呼ばれる土器などが出土しています。水田開発の開始時期を示すのでしょうか。なお、調査区の南側で立派な用水路が見つかっています。この用水路は昭和のはじめまで使用されたものです。用水路の南側は旧道で、コンビニの西側にある細い道へと続きます。そして、ちょうどここを境に、北側が東野辺(ひがしのべ)、南側が天神森(てんじんのもり)という字名にわかれます。さらに古い用水路も見つかっていますので、継続的な土地利用のあったことがうかがえます。 3.長岡京期 南北に長くのびる大規模な掘立柱建物1棟、その東側を画する柵1条が見つかりました。建物は調査区よりも外に広がるため正確な規模はわかりませんが、梁行(はりゆき)2間(東西6m)、桁行(けたゆき)6間以上(南北17m以上)になります。建物の柱堀方(はしらほりかた)は1辺約1mの平面方形状で、柱は直径40cmほどあります。柱と柱の間の距離は約3m(10尺)を基準としており、正確に測量されています。通常の掘立柱建物の規模は柱堀方が50cm前後で、柱間が3m未満、梁間2間、桁行3間のものが多いことと比べますと規模の違いがわかります。古代の建物は柱梁構造ですので、広い床面積を得るためには、梁にかかる屋根の加重を避けることが必要です。そのため、桁行を伸ばして長い建物をつくることがあります(庇(ひさし)を付ける場合もあります)。本例はその典型です。なお、北側の保健センターの調査では東西向きの建物1棟、柵1条が見つかっています。さらに南東側でも3棟分の建物が見つかっており、これらはひとつの官衛(かんが)(役所)ブロックをつくっていたようです。保健センターの建物が9尺等間、その南東側の建物が9尺等間と8尺等間です。本調査の建物はさらに規模の大きいことから、より中心的な施設であつたと考えられます。 4.古墳時代以前 調査区の北側に部分的に分布する暗赤褐色の土は古墳時代以前の湿地性の堆積土(たいせきど)です。長岡京期の建物の柱穴を見ますと、その場所から離れているにもかかわらず、この土がブロック状に含まれていることに気が付きます。 |
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