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長岡宮朝堂院北方官衙・森本遺跡

説明文調査地の位置基本層序の模式図建物の構造調査地平面図調査地周辺のようす建物配置図

調査地 : 向日市寺戸町東野辺31-8
調査期間: 平成15(2003)年5月20日
〜7月31日(予定)
調査面積: 454.04平米
調査主体: 財団法人向日市埋蔵文化センター
調査所管 向日市教育委員会

1.遺跡の立地

この調査地は長岡宮大極殿(だいごくでん)や朝堂院のある阪急西向日駅周辺(標高約32m)とくらべると、ここは標高約19.5mですので、ずいぶん低い場所であるように感じます。しかし、まだここは低地(沖積面(ちゅうせきめん))ではなく、段丘の上です。段丘とは、過去50万年〜2・3万年前のあいだにかけて断層運動によって隆起した地形のことです。足下の黄色っぼい粘土〜砂礫によって段丘を形づくられています。長岡京はその名前が示す通り、都の中心部がこの段丘(長岡)の上にあります。なぜこの場所が都として選択されたのかを知ることも重要ですが、いずれの時代の遺跡についても、どのような環境・地形条件のもとで遺跡が残存(人間が活動)したかを知ることは、自分たちの足下を理解するという点で重要だと思います。

2.中世〜近世

たくさんのが見つかりました。これらは水田耕作や裏作のために繰り返し掘られてきた溝です。一見なんでもない溝ですが、では、どのようにして、段丘上であるこの地に水田をおこなうための水を引くことができたのでしょうか?その答えは、調査地から離れた丘陵上にあります。「はり湖池」などの溜池ができてはじめて段丘上の水田開発が可能になったと考えられています。調査した溝の中からは、鎌倉時代(13世紀後半頃)の瓦器椀(がきわん)と呼ばれる土器などが出土しています。水田開発の開始時期を示すのでしょうか。なお、調査区の南側で立派な用水路が見つかっています。この用水路は昭和のはじめまで使用されたものです。用水路の南側は旧道で、コンビニの西側にある細い道へと続きます。そして、ちょうどここを境に、北側が東野辺(ひがしのべ)、南側が天神森(てんじんのもり)という字名にわかれます。さらに古い用水路も見つかっていますので、継続的な土地利用のあったことがうかがえます。

3.長岡京期

南北に長くのびる大規模な掘立柱建物1棟、その東側を画する柵1条が見つかりました。建物は調査区よりも外に広がるため正確な規模はわかりませんが、梁行(はりゆき)2間(東西6m)、桁行(けたゆき)6間以上(南北17m以上)になります。建物の柱堀方(はしらほりかた)は1辺約1mの平面方形状で、柱は直径40cmほどあります。柱と柱の間の距離は約3m(10尺)を基準としており、正確に測量されています。通常の掘立柱建物の規模は柱堀方が50cm前後で、柱間が3m未満、梁間2間、桁行3間のものが多いことと比べますと規模の違いがわかります。古代の建物は柱梁構造ですので、広い床面積を得るためには、梁にかかる屋根の加重を避けることが必要です。そのため、桁行を伸ばして長い建物をつくることがあります(庇(ひさし)を付ける場合もあります)。本例はその典型です。なお、北側の保健センターの調査では東西向きの建物1棟、柵1条が見つかっています。さらに南東側でも3棟分の建物が見つかっており、これらはひとつの官衛(かんが)(役所)ブロックをつくっていたようです。保健センターの建物が9尺等間、その南東側の建物が9尺等間と8尺等間です。本調査の建物はさらに規模の大きいことから、より中心的な施設であつたと考えられます。
宮内朱雀大路(すざくおおじ)に面したこの場所は、平城宮では大膳職(だいぜんしき)や内膳司(ないぜんし)(役人や天皇の食事をつくる)があったことが発掘調査から明らかにされています。一方、平安宮では、内蔵寮(くらりょう)(皇室の財物を管理する)や縫殿寮(ぬいどのりょう)(衣服の製作や女官の統括をする)があったことが文献史料から知られています。長岡宮でどのような官衙があったのかは知られていませんが、発掘の成果から、多くの役人が出入りするような格の高い施設であったと言えそうです。

4.古墳時代以前

調査区の北側に部分的に分布する暗赤褐色の土は古墳時代以前の湿地性の堆積土(たいせきど)です。長岡京期の建物の柱穴を見ますと、その場所から離れているにもかかわらず、この土がブロック状に含まれていることに気が付きます。
このことは長岡京の時期にはこの暗赤褐色の土が一面に広がっていたことを示します。そして、中世の遺構ではこの土はほとんど含まれていませんので、おそらく中世の水田開発の際に削平されたと考えられます。古墳時代以前の調査はこれからですが、現在のところ、古墳時代の
瑪瑙(めのう)製勾玉柱や、弥生時代の石製の矢尻(やじり)などが見つかっています。特に瑪瑙(めのう)製の勾玉(まがたま)は乙訓(おとくに)地域ではあまり例を見ない貴重品です。とても硬い石なのですが、ヒモを通すための細い穴が開けられています。当時の技術力の高さには驚かされるばかりです。

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