アカハゲ古墳


みなみかわちぐん かなんちょう ひらいし
大阪府南河内郡河南町平石所在
アカハゲ古墳発掘調査現地説明会資料

2004年2月28日(土)
大阪府教育委員会文化財保護課

l.はじめに

大阪府教育委員会では河南町平石で、平成15年7月より16年3月末までの予定で、府営中山間地域総合整備事業「南河内こごせ地区」のほ場整備に伴い、平石古墳群の発掘調査(調査面横5.190平米)を実施しています。

平石谷には、アカハゲ古墳の西600mに6世紀後半の加納古墳群、同じく西370mには、平成13年度に調査を行いました、6世紀後半〜末のシシヨツカ古墳が、一方、東170mにはアカハゲ古墳と同じく7世紀中頃〜後半とされるツカマリ古墳(昭和54年〔1979〕)、内部調査実施)があり、これらの古墳は谷口から谷奥にかけて築かれました。

平石谷の北側には6世紀代の一須賀いちすか古墳群、そのさらに北側の二上山山麓には、用明天皇陵古墳、推古天皇陵古墳、孝徳天皇陵古墳、聖徳太子墓など、7世紀初頭から中頃にかけて集中的に築かれた「王陵の谷」と呼ばれる磯長谷しながだに古墳群が分布しています。磯長谷は竹之内峠(標高283m)、平石谷は同じ葛城山系の平石峠(標高378m)を経て大和に通じています。

アカハゲ古墳は、昭和40年(1965)に石室内部が調査されました。調査の結果によると、主体部は、中軸線が磁北じほくに対し北で約13°西へ偏る、全長9.66mの花崗岩切石を組み合わせた南に開口する横口式石榔で、羨道せんどう(長さ4.Om)、前室(長さ3.36m)、奥室(長さ2.3m)からなっています。切石が組み合う隙間には漆喰しっくいが塗り込まれています。奥室は幅1.5m、高さ1.1mで、前室から遮断する扉石とびらいしの受け部があり、もとは板石で閉じられていたと考えられています。床面は、奥室が一枚石で、前室には粗く加工した長方形の榛原石はいばらいし(奈良県室生郡一帯に分布する流紋岩質溶結凝灰岩りゅうもんがんしつようけつぎょうかいがん〔室生安山岩(むろうあんざんがん)〕)が敷き詰められていました。羨道床は礫敷れきじきで、入口から約2m奥までは人頭大の石が横み上げられています。

遺物としては、木棺に用いられた角形鉄釘4本、鉄鋲断片3個、漆塗籠棺うるしぬりかごかん片約500点、ガラス製扁平管玉へんぺいくだたま8点と断片7点、黄褐釉有蓋円面硯おうかつゆうゆうがいえんめんけん断片3点などがあり、羨道や前室で出土しています。

このときの調査では外部の調査はなされませんでしたので、直径10〜20m内外、高さ4m程度の円墳と考えられてきました。

2.調査結果

今回の調査では、古墳の外部の規模や構造があきらかになりました。

墳丘は中世以降の開発で一部改変きれていますが、保存状態は良好です。現在の水田の石垣、里道などは、古墳の各段のテラス、周溝、壇、貼石などの本来の形状をよく残しています。古墳の形と規模、構造などは次のとおりです。

壇を含む古墳の規模は、東西約70m、南北40m以上に及びます。墳丘は3段築成の方墳で、東西44.6m、南北は南から水平に延びるラインが尾根の斜面に当たるところで終えています。
第3段は開墾によってかなり削られてしまっていますが、東西約22m、南北は14m以上と考えられます。墳丘の高さは7m以上、壇を含めた高さは9m以上、その各部分の高さは、壇が1.6m、墳丘第1段が1.6m、第2段が1.8m、第3段が4mあります。段の高さは東西で異なりますが、これは北東から南西に傾斜する土地に古墳が築かれているためと考えられます。各段の上面は石敷きのテラスとなっていて、その幅は約4mあります。

墳丘は、粘質土と砂質土さしつどを交互に水平に積み重ねて盛り上げ、段の傾斜角は40°〜45°で、その表面には貼石を施しています。

壇は、周溝や墳丘の土台と考えられ、東西約70m、南北は11m程度で、東側に比べて西側が広くなっています。地盤(じばん)の高い東を削り、低い西側にたくさんの土を盛って水平な面を造成していますが、墳丘のような築き方とは違って、南側を土手のように造り、その北側の墳丘裾との空間を埋めています。

周溝は、そのような壇の土盛りのために、南辺に比べてやや軟弱となったところが若干沈んで窪み、結果として幅5〜6mの溝のような浅い水溜まりとなっています。深いところでも深さは25cm程度です。しかし周溝の北東端と北西端は地盤を少し削り下げ、北の傾斜面との区切りをつけ溝の肩としていますので、この溝によって墳丘を壇の空間から区画する意識があったと考えられます。

暗渠あんきょの排水口が、壇の南斜面の裾に2個所、墳丘第1段斜面に1個所設けられています。
中でも壇の南斜面の一個所は保存状態が非常に良く、高さ0.5m、幅1.Omの石組みで、両側に2石を積んだ後、その上に厚みのある長手の石を差し渡しています。古墳の西半は調査以前から水はけが悪く、常に湿った状態でした。これはこの調査区の西に接して、北東から南西へと下る大きな谷地形があり、それから分流する地下水脈が影響しているようです。このような地形上の制約を回避し、石室に水が浸透しないことを第一に考え、暗渠が設けられたと思われます。

その他の遺構としては、墳丘西側に東から西へ深く刻み込む形の流水跡や円形の小土坑があります。流水跡の東端は、墳丘下段西辺下に潜り込んでいるので、壇を築いた後に流水があったことが分かります。東端では深さ0.4m、西端では1.2mで、西の谷地に流れ込んだ様子です。底面は強い流れで抉られた凹凸が西の深い部分で多く見られ、粗い砂が溜まっていました。その後、この流水跡を埋めています。小土坑しょうどこうは径60〜80cm、深さ10〜20cmで、壇の盛土の後に掘り込まれています。壁面がわずかに焼けて赤変し、炭が詰まっていました。

遺物としては墳丘第1段斜面を覆う中世耕土から黄褐釉円面硯、漆塗籠棺の破片、流水跡の底面に溜まった砂から須恵器の破片が出土しています。

3.まとめ

今回の調査では、主に次のようなことが分かりました。

以上のような平面プランをもつ大型の古墳が、早くからこの平石谷に築かれ始め、その後もその伝統が谷奥へと展開する古墳にも引き継がれていったことは注目すべきです。

なお、アカハゲ古墳、ツカマリ古墳の石室内出土の遺物の一部は、府立近つ飛鳥博物館と東京国立博物館で見ることができます。