栢ノ杜遺跡

※下記の文、写真は、すべて当日の配付資料からの引用です。

現地説明会資料
平成16年1月17日
財団法人 京都市埋蔵文化財研究所

I 概要

遺跡名・・・・・栢ノ杜遺跡
調査地・・・・・京都市伏見区醍醐南端山・栢森町
調査面積・・・・約300平米
調査主体・・・・財団法人 京都市埋蔵文化財研究所

II 栢杜遺跡のあらまし

栢ノ杜遺跡は、今から約850年前、平安時代の終わりに建てられた醍醐寺の子院跡です。場所は、醍醐寺から南へ約1km、笠取山の西麓、標高50m前後の西側に視界の開けた高台に位置します。昭和48年に発掘調査が行われ八角円堂と方形堂の二つの建物が南北に並んで確認されました。建物跡が『醍醐雑事記』や『南無阿弥陀仏作善集』の記載に一致することから、長くその存在が不明であった「大蔵卿堂」或いは「栢杜堂」と呼ばれた子院がこの場所に存在したことが明らかになり、昭和58年には国の史跡に指定されました。

III 今回の調査成果

今回の調査は、史跡指定地隣接地の関連遺構を解明するために平成13年度より行われており、今年度で3年目となります。調査では、新たに建物の基壇、石垣、溝、石敷きなどが確認されました。

建物跡 基壇の一部と思われる痕跡を確認しました。規模は、南北10m、西半分が失われており全容は明らかではありませんが、一辺10mの方形であったと思われます。本来、基壇上には礎石が据えられますが既に失われていました。基壇の周辺からは多量の瓦が出土しており、建物に葺かれていたものが落下したものです。瓦のほかに風鐸の破片や釘なども出土しています。

瓦の出土状況(北から)

石垣 建物跡の西側で確認されました。石が積まれているのは南北10m余り、高さは最も高いところで0.8mです。0.3m程の石が段状に積まれています。建物正面にしか石が積まれていないことから、傾斜地の土砂崩れを防ぎ、建物崩壌を防ぐために作られたものと分かります。また、石垣が途切れる南側延長部分では、段差の上部に石が敷かれています。

石垣の状況

 石垣の前面には平行して、排水のためのが掘られていました。溝の幅は、1.8mと大きなものです。

IV まとめ

栢ノ杜遺跡で確認した建物跡は、昭和48年の調査の2棟と今回のものを合わせて3棟になりました。平安時代の終わりに成立した『醍醐雑事記』には栢ノ杜遺跡の事である「栢杜大蔵卿堂」が久寿二年(1155)に供養された事が記されており、さらに「大蔵卿堂八角二階九躰丈六堂 三重塔一基各槍皮茸」「願主大蔵卿正四位源師行」とある事から、ここには八角二階の建物や三重塔が、大蔵卿を務めた源師行(?〜1172)によって造られたことが分かります。また、鎌倉時代、東大寺を再興した俊乗坊重源の事蹟を著した『南無阿弥陀仏作善集』には、重源が「栢杜堂一宇」を造り、丈六の阿弥陀如来像を9鉢、金色の三尺立像などを安置した事が記されています。これまでの調査で確認された建物跡が、文献史料に記された建物のどれに当たるのかが問題となりますが、昭和48年の調査で確認された建物のうち、八角形の建物跡は、その特異な形から「八角二階の大蔵卿堂」にあたることは明らかです。一方、方形の建物は、重源が建久三年(1192)に造営した兵庫県小野市に現存する浄土寺浄土堂平面プランが全く同じである事から、重源の造った「栢杜堂一宇」に相当すると思われます。

今回の調査で新たに確認した建物跡は、礎石が全く残っていないため、建物の構造を知る事はできませんが、文献史料に残る「三重塔」の可能性が考えられます。三重塔としては規模が大きいですが、承安元年(1171)に建立された兵庫県加西市の一乗寺三重塔(一辺8.93m)の例があります。

また、塔の屋根は槍皮葺と『醍醐雑事記』にあり、多量の瓦の出土はこれと反しますが、鎌倉時代に瓦屋根に葺き替えられたとも考えられます。

いずれにしても800年前のこの場所には、仏堂や塔が南北に並び、西側を通る奈良街道から望めば、その堂舎は燦然と輝いて見えた事でしょう。

〔醍醐雑事記 巻第五
一大蔵卿堂 八角二階
九躰丈六堂 三重塔一基 各槍皮茸
本彿阿彌陀丈六像
願主大蔵卿正四位上源朝臣師行之建立也、敷地者三寶院領也、

〔醍醐雑事記 巻第七、第八裏書
久壽二年具注暦
六月小建廿一日丁酉火満
「大蔵御栢杜堂供養御導師 讃衆甘口」

〔南无阿彌陀彿作善集〕
下酉酉栢杜堂一宇并九躰丈六
奉安置皆金色三尺立像一ゝ
上醍醐経蔵一宇奉納唐本一切経一部

*酉酉は醍醐寺の略字

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栢杜関連年表

西暦 年号 醍醐寺 重源 一般
874 貞観16年 聖法、醍醐寺を開く    
1086 応徳3年     白河院政開始
1115 永久3年 三宝院開創    
1121 保安2年   重源誕生  
1124 天治元年 薬師堂造営    
1129 大治4年     鳥羽院政開始
1133 長承2年   重源醍醐寺に入り出家  
1155 久寿2年 源師行により大蔵卿栢杜堂(八角二階)建立    
1156 保元元年     保元の乱
1158 保元3年     後白河院政開始
1159 平治元年     平治の乱
1167 仁安2年   重源入宋、翌年帰国 平清盛、太政大臣となる
1175 安元元年 金剛王院開創    
1180 治承4年     平氏南都焼き討ち、大仏殿焼亡
1181 菱和元年   重源、造東大寺勧進職に任ぜられる  
    この頃、栢杜九躰阿弥陀堂建立    
1192 建久3年   播磨浄土寺浄土堂建立 頼朝、征夷大将軍に任ぜられる
1195 建久6年 重源、宋板一切経を栢杜堂にて讃嘆する   東大寺大仏殿再建なる
1206 建永元年   東大寺にて示寂