現現地説明会
2004年2月21日(土)
(財)大阪府文化財センター
現地説明会資料作成後、継続して谷2の調査を進めたところ、谷の南側から東西方向の柱列を検出しました。この柱列は難波宮の宮域の北限を考える上できわめて重要な意味をもつものです。
◆谷2の南側から谷を横断する形で柱穴列を検出しました。柱穴は3個が東西に並んでおり、そのうちの2個には柱がそのまま残っていました。
◆柱穴はいずれも方形であり、一辺85〜110cm、深さは25〜60cmを測ります。西側の柱穴1には直径30cm、長さ58cmの柱材が立ったままの状態で残っていました。中央の柱穴2は北側に向って柱の抜き取り穴が掘られ
ていますが、柱は傾きながらもそのまま残っていました。
長さ105cm、直径は約30cmです。柱穴3には柱材は残っていませんでした。
◆今田、新たに検出した柱穴列は、東西方向の一本柱塀であると考えられ、地形の起伏に合わせて造営されています。
◆現在も調査中であり、前期難波宮もしくは後期難波宮に帰属するものであるのかは不明ですが、柱材の年輪年代測定が可能であれば、今後、難波宮の造営に関わる実年代が明らかとなる可能性もあります。
◆時期などに不確定要素を残すものの、今回の調査で検出した柱穴列は難波宮と無関係であったとは考えられません。
この柱穴列は中尾芳治氏が推定された前期難波宮跡の北限ラインにも近く、難波宮の宮域の北限の有力な候補として、きわめて重要な位置を占めるものであるといえます。