島庄(しまのしょう)遺跡現地説明会資料
2004年3月13日(土)
明日香村教育委員会
島庄遺跡は嶋宮推定地一帯に広がる縄文時代以降の複合遺跡です。島庄には『日本書紀』や『万葉集』の記述から蘇我馬子の「飛鳥河の傍の家」や草壁皇子の「嶋宮」が存在したとされており、蘇我馬子の邸宅には池をもつ庭園があったことが知られています。
蘇我本宗家の滅亡後、邸宅のあった嶋の地は官の没収となったようで、壬申の乱の直前には天武天皇が吉野宮に行く途中で立ち寄っています。嶋宮自体は奈良時代まで官によって維持・管理されており、その重要性が窺えます。
これらの施設があった「嶋(宮)」の範囲については『万葉集』に「橘の嶋宮」とあるように、現在の島庄から飛鳥川を超えた東橘の範囲までの広範囲にわたっていたようで、そこでは両側に廊状の建物を伴う掘立柱建物などが検出されています。
島庄遺跡の発掘調査は昭和47年度から橿原考古学研究所によって20数次にわたって行われており、飛鳥時代の遺構としては一辺約40mの方形池や石組暗渠・曲溝・川跡・小池・掘立柱建物等が検出されています。
明日香村教育委員会では平成16年1月から島庄遺跡の範囲確認調査を実施しており、今年度はその1年目にあたります。今回の調査面積は約500平米です。
調査の結果、飛鳥時代の掘立柱建物群を検出しました。これらの建物群については方位や重複関係等から4つの群に分けることができます。
各群に分けた建物群の年代については周辺部の調査成果等から、A群は方形池と同じ方位で7世紀前半、B群は7世紀中頃と考えられます。C群は正方位に建てられたもので7世後半と推定されます。D群については今のところ同じ方位をもった遺構は確認されておらず、年代は明らかではありません。またA群については建物(1)と建物(2)・(3)では振れが若干異なることから更に細分することができる可能性も考えられます。
出土した遺物には縄文土器・土師器・須恵器・瓦器・瓦・石器などがあります。
今回の調査では、方形池の南側で数次期にわたる建物群を検出することができました。特にA群とC群については柱穴が一辺1m以上もある大型建物で、その時期が7世紀前半と後半に推定されることから、蘇我馬子の「飛鳥河の傍の家」や「嶋宮」の時代とも重なっており、その間連性が注日されます。
今後、更に周辺部の調査を予定しており、遺跡の全貌を解明していきたいと思います。