平城宮中央区朝堂院朝庭の調査
平城第389次調査
現地説明会資料 2005.6.18
独立行政法人文化財研究所
奈良文化財研究所 平城宮跡発掘調査部
当研究所平城宮跡発掘調査部では、平成15年度より平城宮中央区朝堂院朝庭北部の調査を継続しています。今回の調査は3回目にあたり、朝庭北辺部の様相を解明することを目的としています。また、復原工事のすすむ第一次大極殿を含む大極殿院の整備に資するため、大極殿院南門の未調査部分も調査対象としています。
調査区は、北の第77次調査区(第一次大極殿院南面)、南の第367次調査区(中央区朝堂院朝庭)に挟まれた位置にあたります。調査は2005年3月29日より開始し、現在も継続中です。調査面積は、調査区中央の水路を境とする東区・西区あわせて約1700平米です。
大極殿院は、天皇の即位や外国使の謁見など、もっとも重要な国家的儀式が行われた空間です。奈良時代の前半には、平城宮の中央、朱雀門の北に位置していました。奈良時代後半には、大極殿の機能は東の地区へと移るため、この地域を第一次大極殿と称しています。
第一次大極殿院南辺付近の変遷は、大きく3時期にわけることができます。
第汪(奈良時代前半:平城遷都から恭仁京への遷都まで)
南門・築地回廊がつくられ、少し遅れて楼閣建物が回廊に取り付けられます。
第期(奈良時代後半:平城遷都から長岡京遷都まで)
南門・楼閣建物を廃し、南面築地回廊が北へ移動します。
第。期(平安時代初頭:平城上皇の時代)
礎石建ち建物(桁行3間以上・梁行4間)が整備されます。
奈良時代前半の平城宮 |
奈良時代後半の平城宮 |
中央区朝堂院は、第一次大極殿院の南に位置し、天皇の即位、毎年の元日朝賀や外国使節に対する饗宴を行う儀式空間です。大極殿移転後も奈良時代を通じて饗宴などに使用されていたと考えられています。南北に2棟並ぶ朝堂が東西に相対しており、東西の朝堂に挟まれた広場を朝庭と称します。
宮本長二郎・イラストレーション穂積和夫『日本人はどのように建造物をつくってきたか7平城京 古代の都市計画と建築』草思社1986を一部改変
第367次・第376次調査では、朝庭内において掘立柱の建物を2群検出し、そのうちの1群を称徳天皇の大嘗祭(765年11月)にともなう大嘗宮の遺構と推定しました。これは、平安時代の書物(『儀式』・872〜877年頃成立)の記載から復原される大嘗宮の規模・構造にほぼ一致します。また、もう1群の建物群については、大嘗宮の遺構よりも新しいことはわかりましたが、その性格は明らかでありません。
しかし、大嘗宮の北に位置するとされる廻立殿については問題が残されました。廻立殿は、大嘗祭の儀式の間、天皇が湯を浴びて身体を禊ぎ清め、御在所となる建物です。第367次調査では、大嘗宮の北側で、桁行5間・梁行4間の規模に推定した東西棟建物を検出しましたが、『儀式』に記されている潜立殿は、桁行5間・梁行2間と、規模がそれよりも小さいのです。この建物が廻立殿であるか否かを検証するとともに、性格が不明な建物群との関係が課題として残されました。
今回の訴査の目的は、以上の周辺の調査成果を踏まえ、中央区朝堂院朝庭北部の様相の解明にあります。
下ツ道は、大和盆地を南北に走る古代の幹線道路の一つです。南は巨勢道と接続し紀ノ川沿いに紀伊へ、北は歌姫越えと接続し、奈良山を越えて山背へとつながっていました。平城京は、下ツ道を基準にして造営されました。その際、平城宮内の下ツ道は埋め立てられ、平城京内では拡幅されてメインストリートである朱雀大路となります。
下ツ道の遺構は、道の両脇に掘削された側溝によって確認することができます。これまでの平城宮内の調査においても、朱雀門基壇下(第16・17次調査)、中央区朝堂院南門周辺(第119次調査)で東西両側溝を検出し、下ツ道を確認しています。
今回の調査では、第367次調査で確認した下ツ道の東側溝・西側溝の北延長を確認しました。これらは素掘りの溝で、東側溝は幅1.2〜1.5m・深さ0.2m、西側溝は幅1.5〜2.0m・深さ0.9mと西側溝の方が深く、両側溝の心々間距離は約22mになります。
調査区中央付近で検出し、第97次調査で確認した東西溝SD8372の西側延長部分と考えられます。平城宮の南北をほぼ二等分する位置にあたり、平城宮造営の際の計画線であった可能性があります。
第一次大極殿院南門は、大極殿を取り囲む築地回廊の南面に開く正門としてつくられました。第77次調査の成果をもとに桁行5間・梁行2間(東西約25.1m・南北約11.8m)の単層切妻造の門と復原されます。
振込地業とは、建物の基礎となる基壇を作る前に、強固な基盤を作る仕事のことです。 基壇に合わせて地盤を掘り込み、その中に粘土や砂を数cmから数10cmの厚さで、交互に層状に積んで突き固めています(版築)。
今回の調査では、南門を造営する際の、振込地業の南西隅を検出しました。
暗渠とは、上部が覆われたり、土中に埋設された溝のことです。南門の振込地業内に南北方向に設けられ、幅約50cmで溝状に掘り下げ、拳大の礫を詰めています。これは、堀込地業の工事中の排水や、掘込地業終了後の基壇の湿気抜きが目的と考えられます。
南北約0.7mを検出し、それよりも南側は中近世の撹乱によって失われています。
南門には、北面と南面に階段が取り付きます。南面階段は、既に確認した北面階段と同様に、桁行5間の中央3間分の幅に復原されます。今回は東区の北端で南面階段の一部を検出し、少なくとも2時期の変遷があることを確認しました。
A期(平城宮造営当初):階段の地覆石(階段の一番下に敷く化粧石)を抜き取った痕跡を検出しました。地覆石抜取痕跡の前面に沿って、径0.5cm〜2cm程の小石が密に敷き詰められており、小石敷の舗装が施されていたことがわかります。
南門の推定基壇位置からの階段の出は約1.1m、幅は約14mと考えられます。
B期:階段の地覆石と考えられる凝灰岩の破片を検出しました。A期の小石敷きの上に規模を大きくしてつくり直しています。階段の前面には拳大の礫が敷かれます。凝灰岩の位置に基づくと、南門の推定基壇位置からの階段の出は約2.4m、幅は約15mと考えられます。
調査区の中央部〜北側にかけて、玉石の抜取穴が密に分布する状況を検出しました。
穴は平均して径20cmほどの大きさで、ほぼそれに相当するか、それよりも若干大きい玉石が敷かれていたと推測されます。これらは、平城宮造営当初の舗装と考えられます。
この玉石敷抜取穴は、調査区の中央部以南では検出されておらず、さらに南側の第367次調査区においても確認されていません。東西の範囲に関しては、調査区外にまで続くようです。したがって、この玉石敷は、朝庭の中でも、第一次大極殿院に接する北端にのみ施された可能性が高いと考えます。
今回、玉石そのものを検出することはできませんでした。後で述べるとおり、奈良時代後半には朝庭内に礫敷の舗装が施されますが、その前には玉石が全て抜かれたことがわかります。
東区全面と西区の一部で、礫が敷き詰められた状況を検出しました。この礫敷は瓦片を多く含みます。南門・楼閣建物・南面回廊を廃した後に、一帯に敷かれたと考えられます。東区の北側(南面築地回廊沿い)と水路沿い(南門南面階段正面)では高まりをもち、南に向かってゆるやかに傾斜します。これは、奈良時代前半の起伏の様子を反映している可能性があります。
第367次調査で検出した桁行5間・梁行4間の東西棟建物です。今回、この建物の北側について調査しましたが、関連する柱穴はなく、建物規模が桁行5間・梁行4間であると確定しました。時期について正確には不明ですが、礫敷より新しいと考えられます。
下ツ道両側溝の1.5m〜2m外側で、南北溝を検出しました。幅は1.0〜1.2mで深さは0.1〜0.2mです。礫敷より新しい時期に位置づけられ、第119次調査(朝堂院南門の調査)で検出した南北溝SD9183・SD9184の北側延長部分と考えます。
これらの溝の心々間距離は約28mです。朝堂院の中央を南北に走る、宮内道路の側溝の可能性があります。
調査区北寄りで、東西方向の柱穴列を検出しました。現時点で、東区で13基、西区で5基確認しています。最大径1mほどの柱穴と、最大径0.7mほどの柱穴が、7尺(約2.1m)の間隔で交互に並び、塀となる可能性が高いです。朝庭の中軸線から東西にそれぞれ5.5mほどの間は、柱穴が続かないようです。礫敷よりは新しい時期のものです。南門を廃し、南面築地回廊が北側へ移動した頃に、朝堂院を区画するため設けられた可能性があります。
平城宮内の舗装は、拳大の礫敷が一般的です。玉石敷は、内裏の井戸に伴う洗い場や、東院庭園や宮跡庭園の池などに用いられる以外、類例がありませんでした。平城宮において、朝堂院朝庭で玉石敷の痕跡が確認されたのは今回が初めてのことです。
これまで、飛鳥地域を含めた宮殿遺跡では、玉石敷きは朝庭相当施設以外での使用が確認されています。また、藤原宮朝堂院朝庭の舗装は礫敷きで、平城宮東区朝堂院朝庭も同様です。平城宮の中央区朝堂院と東区朝堂院で舗装が異なるとみられることは、それら2つの朝堂院の性格の違いを示す可能性があります。ただし、玉石敷は中央区朝堂院全面ではなく、北辺の部分的な舗装であるため、中央区朝堂院内の舗装のデザインである可能性もあります。
また、この玉石は奈良時代後半には全て抜き取られています。抜き取られた時期として、
第一次大極殿院の南面階段は少なくとも2時期の変遷が確認でき、階段の規模が変化したことがわかりました。同時に、階段周辺の舗装も、小石敷から拳大の礫敷へと変化しているようです。
北面階段の調査では3時期の変遷を確認していますが(第77次調査)、南面階段と同様、階段の規模が変化したことが明らかになっています。
これらの階段の改作が、南門の基壇規模の変化や、階段の勾配の変化などを反映している可能性がありますが、それについては今後の検討課題です。
称徳天皇大嘗宮の北に位置する大型建物の規模が、桁行5間・梁行4間と確定しました。
また、大嘗宮の北側には、この建物以外に建物や区画施設は存在しないことも明らかになりました。
したがって、規模は『儀式』から復原されるものより大きいものの、この建物が廻立殿である可能性は依然として残ります。称徳朝廻立殿の存否、そして南側に展開する掘立柱建物群との関連についても今後の課題となります。