島庄遺跡
現地説明会資料
平成17年(2005年)8月27日(土)
明日香村教育委員会
島庄遺跡は縄文時代から中世までの複合遺跡です。『日本書紀』や『万葉集』の記載から蘇我馬子の邸宅や草壁皇子の「嶋宮」があったことが想定されています。その後この地は、奈良時代まで官によって維持管理されます。また、「嶋宮」の範囲は『万葉集』に、「橘の嶋宮」と書かれているように、現在の島庄から飛鳥川の西側、東橘までを含む広範囲にわたっていたことが想定されています。島庄遺跡の発掘調査は、これまで奈良県立橿原考古学研究所が30次にわたって行っており、飛鳥時代の遺構として掘立柱建物や一辺40mを越える方形池をはじめ、石組溝・曲溝・小池等がみつかっています。明日香村教育委員会では、島庄遺跡の範囲確認調査を平成15年度から行っており、今回の調査区近辺に7世紀代全般にわたって重複する建物群があったことがわかってきました。今回の調査はその3年目にあたり、約530平方メートルを調査しました。
今回新たにみつかった飛鳥時代の掘立柱建物(建物(18))は1棟で、掘立柱塀(塀(19))は1条です。また、2003ー18次調査によって確認された建物のうち、建物(1)・(2)・(5)・(6)・(8)については、その規模を確定することができました。建物Qおよび塀Rは、その方位から、7世紀前半のA群建物にあたります。出土した遺物には、サヌカイト剥片、縄文土器、弥生土器、土師器、須恵器などがあります。建物の柱穴からも遺物は出土していますが僅かで、厳密な時期を確定できるものではありませんでした。
今回の調査でも、飛鳥時代の掘立柱建物・塀が新たにみつかり、これまで不明であった建物の規模について、確定できたものがあります。時期ごとの建物配置をみてみると、比較的大型の建物に小型の建物数棟と塀が附属するという傾向を読み取ることができるようです。 これまで明日香村教育委員会では3年間にわたり、計3000平方メートルを越える面積の範囲確認調査を実施してきました。一連の調査で判明したことをまとめておくと、