下三橋遺跡第1次発掘調査

下三橋遺跡第1次発掘調査
2005年9月3日(土)
大和郡山市教育委員会
(財)元興寺文化財研究所

図1

図1 調査地周辺の空中写真と条坊

◇調査の契機と経過

今回の発掘調査は、大型店舗の出店を契機に実施したものです。今年(平成17年)の2月より、大和郡山市教育委員会が地下遺構有無確認のための試掘調査を実施し、その知見に基づいて同年6月より市教育委員会と(財)元興寺文化財研究所が共同で発掘調査を実施してきました。 その結果、後に記すように平城京が従来知られていたものより南に拡大することが明らかになりました。今回の調査面積は2万平米を優に超える非常に大規模なもので、調査自体は来年まで続く予定なのですが、この学史に残る重要な発見をいち早く皆さんに知ってもらうために、また、少しでも良好な状態で遺構を見ていただくために、調査の約50%を終了した時点で今回の現地説明会を実施することになりました。

図2

図2 XC調査区・XD調査区空中写真と条坊想定ライン

◇調査の概要

羅城

図3

図3 羅城外溝と九条大路南側溝(北より)

平城京には羅城門を中心とした南側に羅城(らじょう)とよばれる城壁があったと考えられています。しかし今まで羅城が明確に見つかったことはなく、その形や規模がよくわかりませんでした。今回みつかった羅城は、幅約3.6mの九条大路南側溝と、幅約4.5mの濠に挟まれた幅約16mの空間に、2列の柱穴が並ぶものです。この柱穴が築地(ついじ=土壁)の跡なのか、門のような施設だったのかはもう少し検討しなければなりませんが、平城京の南を限る施設の跡であることは確実です。また、これまで羅城門周辺は東西約133m分が九条大路から南に張り出すと考えられてきましたが、今回の発見で東西約520m分張り出していたこともわかりました。


条坊関係遺構

図4

図4 十条々問北小路(東より)

図5

図5 十条々間路と乗二坊々間路の交差点(西より)

図6

図6 十条々間路と乗二坊々間東小路の交差点(東より)

今回みつかった条坊関係遺構は、東一坊大路・東二坊々間路・東二坊々間東小路・十条々間路・十条々間北小路といった道路遺構です。九条大路以北には大路、条間路・坊間路、坊間小路・条間小路といった規模の異なる道路が存在することがわかっていますが、今回の調査でみつかった条坊遺構もやはり九条大路以北と同じ設計の道路で区画されていることがわかりました。また、坪内の土地利用については非常に希薄であり、長く使用した様子は見られません。これらの道路側溝はいずれも人の手によって埋められており、何らかの理由で意図的に条坊を壊してしまったようです。その時期についてはおおよそ奈良時代の初め、平城京への遷都からそれほど時間が経っていないころのようです。その後この場所には条里制とよばれる水田の区画(平城京の区画よりも小さい)が施工されてしまい、条坊の痕跡は完全に消えてしまいました。そのため平城京の復元が試みられた江戸時代以来、だれもこの場所に条坊があることに気づかなかったのです。

◇まとめ

今回の調査における最大の成果としては、これまで平城京の外と考えられてきた場所に条坊遺構が存在したという点にあります。平城京は設計当初九条大路よりも南まで延びていたことが明らかになりました。この成果は、この100年間ほとんど変更のなかった平城京の地図を書き換える大きな発見といえます。

ところで、平城京九条大路の南側、下ツ道を境にして東半部分には「京南辺特殊条里」と呼ばれる特異な条里地割が遺存していることが知られていますが、この条里地割は、奈良盆地に広く遺存する一般の条里遺構とは全く異なる坪付がなされていることが特徴です。従来、この特殊条里は他の条里とは異なる背景の元で施工されたものと理解されてきましたが、今回の条坊遺構の発見により、この京南辺特殊条里は、かつて条坊が存在した部分に施工されたものという可能性が出てきました。図7は、その仮説に基づいて作成した条坊の想定図です。本図によれば、平城京は従来の復元よりその東半分が東西4坊(約2.1km)にわたって南に3坪分(約400m)ほど広かったことになります。もちろんこれは現時点では一つの仮説であり、条坊の広がりに関しては、今後の発掘調査の進展を待って慎重に判断せねばなりません。

図7

図7 平城京条坊復元図(朱線は今回発見の条坊遺構を元に復元した部分)