女郎花(おみなえし)遺跡
2005年10月1日(土)
八幡市教育委員会 社会教育課 文化財保護係
調査地 | 京都府八幡市八幡大芝53−1,54−1,54−2,54−3,55 |
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調査原因 | 宅地造成に伴う道路建設 |
調査委託者 | 株式会社 信和住宅 |
調査面積 | 約450平方メートル |
調査期間 | 平成17年8月8日〜平成17年10月7日(予定〕 |
調査主体 | 八幡市教育委員会 |
調査担当者 | 社会教育課 文化財保護係 大洞真白 |
八幡市教育委員会では、
調査地のすぐ北には、木津川左岸最大級の前方後円墳である
調査地の東を
図1 調査地 位置図(S=1:5,000)
調査地は男山の
第2図 調査区平面図(古墳時代〜)平安時代後期の生活面(S=1:250)
第3図 平安時代末期頃〜中世の生活面
第4図 江戸時代前期の生活面
調査地の北〜西部は丘陵上の端であり、南〜東部は南東方向へ向かう傾斜地で、底には谷がありました。出土した遺物から、調査地の北〜西にはこの時代の集落があったことがわかります。
調査した場所は集落のはずれでありますが、調査区の北端でも、井戸や柱穴列のほか、土器の入った落ち込みといった、人が居住した痕跡が見つかりました。
丘陵斜面に形成された池は、検出部において径16m程を測ります。他の本体は西側にあり、東へ向かって2条の溝(水口)が設けられています。生活用水もしくは耕作用水の確保を目的に人口的につくられたもので、2つの水口は丘陵上の集落や耕作地に水を供給するためのものと見られます。奈良時代から平安時代を中心に使用され、平安時代後期(12世紀・約900年前)頃には堆積が進み、鎌倉時代(13世紀頃には本格的に埋設され、その跡地に段々畑が作られたと理解されます。
池は意図的に埋められ、これまで利用されていなかった傾斜面に土を盛って平坦面を作り出し、 畑として利用するようになりました。平坦面は幅1.5〜2m程の狭いもので、造成が最小限にすむ よう、地形にあわせた形状をしています。
東の谷も、この時期以降に整地されたとみていますが、今後の遺物調査によって詳しい年代を特定する必要があります。この整地土のうえに1条の溝が検出されました。
鎌倉時代以降、この地は耕作地として継続的に利用されており、調査区南では江戸時代前期(17世紀)頃に大規模な盛土が行われて耕作地の面積を大きくした様子がみられました。さらに江戸時代後期〜近代の初め頃に盛土が行われ、調査地全体にほぼ平坦な地形が形成されました。全体に床土が貼られているので水田とされたことがわかります。
長い間耕作地として利用されてきた当地に大きな変化がおきました。全体に1m以上の盛土がなされ、宅地として利用されるようになりました。
男山東麓の丘陵端から斜面地は利用しにくい土地でした。平野をよく見渡すことはでき、古墳が多く造られましたが、水の確保が難しく、古墳がつくられた時代には人々は平野側で生活していたようです。古代を中心とする時期に、人々はため池を作ってその問題を克服しました。調査地の西にあるため池は明治時代の地図にもありますが、古代にまで
このように古代以来、男山周辺の丘陵とその斜面を先人たちが土木工事を重ねて開発してきた時期とその様子が具体的に知ることができ、地域の歴史を知る上で重要な成果を得ることができました。
第5図 明治時代の遺跡周辺図
(明治27年第日本帝国陸地測量部発行仮製二万分一地形図「淀」「田辺村」を調整)
第6図 ため池遺構と遺跡周辺地形 模式図