西飯降II遺跡、丁の町・妙寺遺跡 発掘調査 現地説明会

京奈和自動車道(紀北東道路)遺跡発掘調査
一西飯降II遺跡、丁の町・妙寺遺跡の調査一現地説明会資料

平成18年11月4日(土)
主催 (財)和歌山県文化財センター

【遺跡の位置と概要】

本事業は、京奈和自動車道(紀北東道路)の建設工事に伴って発掘調査を実施しています。対象地区は、伊都郡かつらぎ町妙寺字八幡前東1274番地他43筆に位置します。本年度の調査地は、東側に西飯降II遺跡(26)、西側に丁の町・妙寺遺跡(27)の二遺跡にまたがり、調査面積は約2万m2を対象としています。調査は対象地を南北に分割して行い、これまでのところほぼ北側半分の約1万m2を実施しました。

調査地は遺跡名称の示すとおり、伊都郡かつらぎ町西飯降・妙寺・丁の町にまたがっています。具体的な場所は、中飯降城跡(1)の所在する県立農大から弁天谷川の流れる開析谷を隔て西側にあり、低位段丘II面の最も奥まった範囲に位置しています。妙寺地区の祭神が入る八太神社(八幡神社)や西飯降地区の祭神が入る丹生神社の南側が調査地です。

調査地は、現行の妙寺から西飯降に属しますが、中世では官省符荘の西飯降村に属する地域で、古代には妙寺条里の西端が及んでいたと考えられる地域になります。調査地は、地表面の観察だけからも、条里型地割が窺える地域です。さらに、真北にある畑谷池(別名、妙寺池・上人池・大池などとも言われます)には、応其上人ゆかりの五輪塔もあるなど、中・近世を通じてかなり重要な地域と考えられます。

西飯降遺跡(18)は、低位段丘端に位置し、縄文時代の石棒の出土で知られています。中飯降遺跡(14)も低位段丘端に位置し、弥生土器・土師器・石鉱が出土しています。調査地に該当する西飯降II遺跡は、低位段丘に位置し、縄文時代〜古代にかけて縄文土器・弥生土器・土師器・須恵器・石器が出土しています。

丁の町・妙寺遺跡は、中位段丘端から低位段丘を含む範囲に位置し、弥生時代〜中世にかけて弥生土器・土師器・須恵器・石器が出土しています。また、丁の町遺跡(16)は、中位段丘端に位置し、古墳時代の土師器(壷棺)が出土しています。少し離れて、調査地の北方の中位段丘上には、妙寺遺跡(19)から古墳時代の土師器(壷棺)が、重複して位置する妙寺墳墓(2)から奈良時代の蔵骨器が出土しています。大藪経塚(3)は、中位段丘の裾に位置し、室町時代の和鏡が納められた経筒が出土しています。付近の中位段丘端には、中世官省符荘の荘官田所氏の館跡とされる中飯降城跡が所在します。

今回の調査に先行して行われた試掘調査の内容から類推して、弥生・古墳時代などの生活遺構も当然存在しますが、上述のように、調査地は中・近世の生産地遺構が遺存するものと思われていました。

図1 発掘調査工事位置図


京奈和自動車道(紀北東道路)発掘調査 遺構分布図(1/1,000)

【主要な準構と遺物】

西飯降II遺跡では弥生時代中期の円形竪穴住居跡・方形周溝墓・土器棺墓・溝・土坑などが検出できました。円形竪穴住居跡(5185)は直径が8.0mあり、中央に炉跡、その周囲に柱穴が配置されています。また壁に沿って細い溝が掘られていますが、竪穴の壁を補強する板材の痕跡と考えられています。1B4区で住居が3棟見つかりましたが、形状がはっきりせず床面を深く掘り込まない平地式住居の可能性があります。2A1区西半で検出できた方形周溝墓は北辺が自然流路に壊されていますが、1辺が14mです。溝内から弥生時代中期の土器が出土しました。2A1区の北側斜面部では土器を用いた土器棺墓が2基見つかりました。土器を二つ組み合わせたものです。古墳時代になると竪穴住居と溝・自然流路があります。方形住居は5183住居が4.5×5mと5184住居が3.3×3.5mと円形住居より小型です。時代は新しくなり、古墳時代前期です。5089住居5095住居は古墳時代後期に属する方形住居です。どちらも北西辺中央にカマドが設置され4本柱です。5089住居は床面に炭化した建築部材が遺存していることから、焼失家屋と思われます。また、床面からあまり壊れていない土器が多く見つかったため、土器を持ち出せないような火災の状況が想像されます。北東から南西へ向かって流れる5186溝は礫と砂で埋まっており、洪水のような急な流れです。5186溝には底部に杭を打ち込んで小規模な堰をつくり、分流させている施設も見つかりました。

丁ノ町・妙寺遺跡では弥生時代の円形住居・土坑、古墳時代の土坑が検出されました。1B1区では2A1区と同様な円形住居(51住居)が見つかりました。北側半分の検出ですが、規模は直径8.0mで5185住居と同規模です。床面の中央に炉と炉堤が設けられています。柱は6本検出しましたが未調査分も含めて8本柱と思われます。1A2区ではほぼ完形品の樽形ハソウを埋めた土坑を1基検出しました。

西飯降II遺跡と丁ノ町・妙寺遺跡にはさまれた中央部では、水田跡を検出しました。この部分は住居が見つかったところより一段低くなっており、水が集まりやすく粘土質の土壌が堆積しています。水田は洪水の砂で覆われており畦も残っていました。部分的ですが足跡や稲株と思われるような痕跡もみられます。また、水田に水を取り入れる水路と思われる溝も見つかり、山際から湧き出る水を集めて水田を営んでいたものでしょう。

出土遺物は丁ノ町・妙寺遺跡よりも西飯降II遺跡から多く出土しています。弥生土器・石包丁、古墳時代の須恵器・土師器・紡錘車、平安時代の土器、中世の土器など豊富な遺物が見られます。弥生土器や土師器は遺存状態が良くありませんが、須恵器は形のわかるものがたくさんあります。特に1A2区から出土した須恵器の樽形ハソウは出土例も少なく貴重な遺物です。

【まとめ】

以上のことから、西飯降II遺跡と丁ノ町・妙寺遺跡での原始・古代集落の様相と生産地域としての水田の状況が徐々に判明してきています。

今回の調査地では、谷を挟んで弥生時代から古墳時代を中心とした二つの集落が存在することが分かりました。中でも、円形竪穴住居の構造は、紀の川下流域との関連が高いことが判明してきています。また、弥生時代中期の大きな方形周溝墓の在り方は、規模の大きい点から紀の川上流域の奈良盆地及び吉野郡から橋本市にかけた地域との関連性を考える上で非常に重要であることが判明してきています。さらに弥生土器の中には、他の地域(紀の川下流域・河内)から持ち運ばれたものも見受けられます。このように、紀の川流域のおける東と西の中間地域の様相を把握する上では、格好の調査例となります。

古墳時代の集落の在り方は、まだ全体像が見え難い状況ですが、古墳時代の前期・中期・後期に継続して集落が営まれ、後期に最盛期を迎えていたことが分かりました。まだ古墳時代中期の住居跡は発見されていませんが、炉と竃の配置、貯蔵穴の配置関係から前期と後期の竪穴住居の構造の遷り変りを理解できるようになってきています。当遺跡での古墳時代の集落の発見は、この地域に古墳そのものが少ない中で形成される集落であるだけに、紀ノ川の南岸の慈尊院II遺跡の集落と関連付けて今後も新たな発見に、また古墳そのものの発見に繋がるものと思われます。

過去、紀ノ川流域において様々な遺跡で考古学的な調査が繰返されてきましたが、かつらぎ町佐野遺跡から東側に隣接する旧高野口町(現橋本市)高尾遺跡にかけての数キロメートル圏内での本格的な調査は初例となります。また、大きな意味では、紀ノ川北岸に見られる低位段丘上では、旧粉河町(現紀の川市)から旧高野口町にかけて調査事例が少ない状況にあります。このようにこの範囲は、地域に展開する遺跡群とは言え考古学的には、殆ど未開拓の地域でした。京奈和道路の路線では、今後も継続して調査される範囲内において様々な発見が相次ぐものと思われます。

図3 京奈和自動車道(紀北東道路)発掘調査 縦穴住居跡(1/100)

51住居の平面図

51住居

平面形:
円形
検出地区:
1B1区
時期:
弥生時代中期
規模:
直径8m
深さ:
約20cm
柱穴:
6本を検出(8本柱)
特徴:
中央に炉と炉堤(炉穴の径65×80cm)壁溝

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5089住居の平面図

5089住居

平面形:
円形
検出地区:
2A1区
時期:
古墳時代後期
規模:
(4m)×3.7m
深さ:
約20cm
柱穴:
4本柱
特徴:
焼失住居、床面に炭化した建築部材(垂木)北西辺にカマド

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5095住居の平面図

5095住居

平面形:
円形
検出地区:
2B2区
時期:
古墳時代後期
規模:
4.2mX4.1m
深さ:
約10cm
柱穴:
4本柱
特徴:
北西辺にカマド 南西に貯蔵穴、壁溝

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