国府(こう)遺跡(市野山古墳北東部)発掘調査現地説明会

国府(こう)遺跡(市野山古墳北東部)発掘調査現地説明会

平成18年11月18日(土)
主催 藤井寺市教育委員会

はじめに

本調査区は国府遺跡の南東部、位置的には市野山(允恭いんぎょう陵)古墳の東側に当たり、河内国府の推定地の一つとされていました。今回、住宅開発の申請が上がったため予備調査を実施した結果、多くの遺構、遺物が存在することが判明したため、開発道路部約1,200m2の調査を実施しました。なお、現在も調査中であるため、ここで示した内容が今後変更される可能性もあります。

調査の概要

今回、調査区の北部で円墳1基、方墳と思われる古墳1基およびそれに付随する埴輪円筒棺墓3基(調査区全域では5基)を検出しました。これらは、市野山古墳外堀にほぼ接して造営されており、陪塚ばいづかの可能性が考えられます。

なお、円墳の存在する周辺には「兎塚うさぎづか」の字名が残ることから、この古墳を兎塚古墳と命名し、南側の古墳を兎塚2号墳としました。

調査区位置図
調査区位置図

市野山古墳(前方後円230m)周辺陪塚
唐櫃山古墳
帆立貝53m
長持山古墳
円約40m
御曹子塚
円約37m
赤子塚古墳
円38m
小具足山古墳
方20m
宮の南塚古墳
円約40m
衣縫塚古墳
円約20m
折山古墳
円不明

その他、すでに調査を終了しましたが、衣縫塚いぬいづか古墳西側で埴輪円筒棺墓2基を検出しました。また、土構内に須恵器蓋坏すえきふたつきを埋納したものが認められました。

調査区北部平面図(S=1:300)
調査区北部平面図(S=1:300)

兎塚古墳

検出面で直径34m、造出し幅11.5m、全長36m以上を測ります。造出し端部や基底部(裾部)の確認など古墳の全面を調査していないため正確な測量値は現時点では不明ですが、40mを超える可能性があります。一部濠ほりで削平されていますが、墳丘地山面には弥生時代の円形竪穴住居跡や土壙どこう、溝が認められます。

造出し東斜面には茸石ふきいしが残っています。他の部分も多くの転落石が認められることから墳丘には葺石が存在したと思われます。

濠の平面形は底部がすぼまる盾形を呈します。また、濠の南西部を西側に広げ、そこに埴輪円筒棺墓2基、木棺墓3基を造っていました。→パネル写真

濠の埋土上層では古代の土器が多量に認められ、皇朝12銭である和同開珎わどうかいちん初鋳(しょちゅう708年)、富寿神宝ふじゅしんぼう(初鋳818年)も出土しています。また、下層からは円筒埴輪や形象埴輪(家形、衣蓋きぬがさ形、人物形、馬形など)が多量に出土しました。埴輪の特徴から市野山古墳とあまり時期の隔たらない、5世紀後半と考えられます。→展示遺物写真

兎塚2号墳

兎塚古墳の南側で検出されました。溝から出土した遺物は埴輪が中心で、古墳の濠の一部と考えました。墳形は方墳と思われますが、ほとんどが調査区外にあるので詳細はわかりません。なお、この濠内では埴輪円筒棺墓3を検出しています。→写真

埴輪円筒棺墓1

兎塚古墳に伴うもので主軸が南北方向にあります。幅70cm、長さ225cmを測る大型品です。大型円筒埴輪と盾形埴輪を転用したもので、小口部の閉塞にそれぞれ衣蓋形埴輪を用いています。一部削られている部分もありますが、ほぼ完存していました。未整理のため詳細は不明ですが、掘方ほりかた内からTK23〜TK47期の須恵器が出土しており、5世紀後半に造られたと考えられます。→写真

なお、北側から西側で検出した溝状遺構がこの埴輪円筒棺墓の周濠である可能性を指摘したいと思います。

また、使用された盾形埴輸の紋様は上下区に内向複合鋸歯紋きょしもんを配し、左右脇区には直弧紋ちょっこもん、内区に2列5個合わせて10個の菱形紋を配しています。紋様は稚拙な部分もありますが、盾面紋様の要素を保持しており、5世紀後半の盾形埴輪と思われます。

埴輪円筒棺墓1
埴輪円筒棺墓1

埴輪円筒棺墓2

兎塚古墳に伴うもので主軸が南北方向にあります。幅41cm、長さ94cmを測ります。上部を削平されていましたが、円筒埴輪1個体を転用し、他の円筒埴輪片で小口部の閉塞へいそくをするものです。→写真

掘方は埴輪円筒棺墓1の掘方を切り込んでおり、時期が新しいことがわかります。

埴輪円筒棺墓3

兎塚2号墳に伴うもので主軸が東西方向にあります。幅50cm、長さ175cmを測ります。円筒埴輪2個体を転用し、小口部の閉塞にそれぞれ朝顔形埴輪の口縁部を用いています。濠の底に造られたためか完存していました。→写真

埴輪円筒棺基4

衣縫塚古墳の西側で検出したもので、主軸が東西方向にあります。幅54cm、長さ150cmを測ります。何個体かの円筒埴輪の破片を集めて円筒棺にしていました。使用された円筒埴輪は外面調整がタテハケのみのものと、ヨコハケを施しているものが併存しています。内部には副葬品は認められず、人骨も現在のところ確認できていません。→パネル写真

埴輪円筒棺墓5

衣縫塚古墳の西側で検出したもので、南北方向にあります。幅50cm、長さ110cmを測ります。上部のほとんどが削平されていましたが、円筒埴輪1個体を転用し、両小口を別の円筒埴輪で閉塞したものです。内部には副葬品は認められず、人骨も現在のところ確認できません。→パネル写真

その他

木棺墓1〜3は兎塚古墳に伴うものと思われます。木棺墓1の木棺の痕跡は残っていませんが、両小口に握り拳大の河原石を積んでおり、その状況から木棺墓と判断しました。棺上部には土師器の長頸壷が置かれています。埴輪円筒棺墓1の掘方と重複しているため、後出することがわかります。木棺墓2も人頭大の石を小口に置いていました。→木棺墓1木棺墓2木棺墓3

また、終了した調査区ですが、土壙に完形の須恵器蓋坪4個体が蓋、身セットで埋納されていました。さらにその中の2個体に二枚貝を入れていることがわかりました。これらの蓋坏はその形状などからTK23期のものと考えられます。→パネル写真

まとめ

現在調査中のため、兎塚古墳の本来の基底部や濠底の状況、埴輪円筒棺墓の内部に人骨や副葬品が残っているかなど詳細はわかりません。

しかし、今回の調査で陪塚と考えられる古墳や埴輪円筒棺墓などが見つかったことから、従来推定されていた河内国府はこの地点には存在しないことが判明しました。

また、大王陵と推定できる市野山古墳の陪塚である兎塚古墳のまわりに埴輸円筒棺墓や木棺墓などが造営されており、主墳→陪塚→小古墳(陪葬)という関連が視覚的にも確認できます。

なお、埴輪円筒棺墓は人体埋葬されたと考えられますが、1・3以外は長さが短いことから成人を埋葬したとは考えにくいため、子どもを埋葬したなどの可能性も含め、今後の課題にしたいと思います。