私部南(きさべみなみ)遺跡 現地説明会

平成19年(2007年)1月20日(土))
主催 (財)大阪府文化財センター

※このページの文、写真は、すべて当日配布の現説資料((財)大阪府文化財センター制作)からの引用です。

遺構全体写真

私部南遺跡の発掘調査

第二京阪道路の建設予定地が私部南遺跡を貫通する形で啓作されたため、事前に発掘調査を実施することになりました。遺跡の西端に当たる京阪電鉄交野線から南川までの間を(その2)として平成18年8月から調査に着手しました。道路建設予定地の北辺の約1,600m2から調査をはじめ、弥生時代前期末から中期初頭の時期の集落跡と古墳時代後期の集落跡が重なって遺存することが分かってきました。

これまで明らかにされていなかった台地縁辺部で、集落遺跡の様子を解明する資料となることが期待されます。

弥生時代のムラ

大型円形住居の写真
大型円形住居

穴に敷き詰めて埋められた弥生土器の写真
穴に敷き詰めて埋められた弥生土器

今回の調査で検出された弥生時代の集落跡は、ムラが廃絶した後、徐々に土砂が流失したため、またその後に営まれた古墳時代のムラと重なっているため、断片的にその痕跡を留めるにすぎません。

しかしながら調査区の中央付近では直径8mほどの弧を描く細い溝の痕跡が幾重にも認められ、大型の円形住居が数次にわたって建て替えられたことがうかがわれます。こうした大型円形住居は弥生時代中期を中心に、各地域の拠点的集落に営まれていたとみられ、本遺跡の性格を考える上で重要なものと言えます。

他にもやや弧を描くように痕跡を留める構がいくつか認められ、複数の円形住居が営まれていた可能性があります。弥生時代前期の土器を割って敷き詰めるように納めた土坑も検出されており、そうした住居跡との関連が想定されます。

調査区東端へ落ち込むように検出された谷状地形では、流れ込むように集中した弥生土器の溜りも見つかっており、断片的な遺構ながら台地上に大規模な集落が営まれていたことが想定されます。

今後の調査で弥生時代のムラの様子が更に解明されることが期待されます。

弥生時代の遺構
弥生時代の遺構

古墳時代のムラ

方形竪穴住居の写真
方形竪穴住居

溝に埋められた甕の写真
溝に埋められた甕

弥生時代のムラが廃絶してから数百年を経て、6世紀後半を中心に再び人々が移り住み、古墳時代のムラが営まれたことが明らかになりました。

古墳時代のムラには、上部を浅く広く窪めさらにV字形に深く掘られた部分をもつ東西方向、南北方向の溝が開削されています。これらの溝は2条1組を基本とするようですが、何時期かにわたって埋められては開削し直され、別の溝に切り替えられており、常に2条1組で同時に機能したとは限らないようです。溝の上層から横たえた2個体の須恵器甕などの土器が出土しました。この溝が使われなくなって埋めてしまう時、その上層を中心に多量の土器を埋め込んでいることもあったようです。

溝で区切られた空間には8棟以上の方形の竪穴住居と無数の柱穴、土坑などが検出されています。柱穴には大小円形のものに加え隅丸方形を呈するものもあり、多数の掘立柱建物や柵列などが何度も建て替えを繰り返しながら集落が営まれていたものと考えられます。竪穴住居などの建物と溝には前後関係を示すものもあり、今後の調査進捗とともに古墳時代のムラの変遷が明らかになることが期待されます。

古墳時代の遺構
古墳時代の遺構

上層で見つかった中世の遺構


上層で見つかった中世の遺構

弥生時代や古墳時代の遺構面の上は、10〜20cmの厚さの黒褐色の遺物包含層でほぼ全体が覆われていました。この黒褐色の遺物包含層の上面では、中世の遺物とともに畑として耕作を行った際の南北方向の畝溝がほぼ全面で検出されました。弥生〜古墳時代には谷状地形だった調査区東端の区域はその後も湿潤な土地で、この一角だけは水田として利用されていたようです。水田耕作面では往時の人々が耕した際に残した足跡が見つかっています。出土遺物からこれらの耕作面は室町時代(14世紀頃)のものと考えられます。

今後の調査の予定

私部南遺跡(その2)では、平成20年1月までの予定で順次調査を進めていきます。調査は、大阪府教育委員会の指導の下、道路建設工事により埋蔵文化財に影響が及ぶ恐れのある範囲について、数次に分けて実施する予定です。

これからの調査により私部南遺跡の変遷がさらに解明されることが期待されます。今後とも、ご理解とご協力を賜りますようよろしくお願いいたします。

今後の調査予定範囲の図


私部南遺跡とその周辺の遺跡

私部南遺跡(その2)現地説明会資料 発行
(財)大阪府文化財センター
〒590−0105 堺市南区竹城台3丁21番4号TEL 072−299−8791
発行日 2007年1月20日