平成19年(2007年)2月11日(日)
主催 独立行政法人 奈良文化財研究所
※このページの文、写真は、すべて当日配布の現説資料(独立行政法人 奈良文化財研究所制作)からの転載です。
調査位置図
調査区全景
建物2
石垣南半(北西から)
甘樫丘は、飛鳥川の西岸に位置する丘陵で、『日本書紀』には
今回調査した谷地は、これまでの調査で7世紀の整地と建物群および
こうした成果をふまえ、奈良文化財研究所では遺跡の広がりと性格の解明を目的に、今年度も継続して調査を行うこととしました。
遺構は大きく3時期に分かれ、各時期ごとに土を盛って大規模な整地を行っています。
調査区内の自然地形は、南北方向に谷筋が入っていました。この谷筋のほぼ中央に石垣を築いて東側に一段高く敷地を造成し、建物を建てます。
石垣は、東側の敷地の法面を構造的に保護するとともに、迫力ある敷地構えをみせる視覚的な効果も果たしていたと思われます。
I期の段差および石垣を覆うように全面に盛土をし、中小規模の建物を建て、
建物には数度の建て替えがみとめられます。
II期の整地土上に盛土をし、炉をつくりました。炉は
遺物は7世紀代の土器が大半を占めます。
また、他所から混入したとみられる
今回の調査の結果、7世紀代を通じての活発な土地利用が確認できました。
特に、7世紀前半(I期)の大規模な整地や石垣の存在は、敷地の造成に多大な労力が投入されたことを示しています。
また、7世紀中頃(II期)には再び大規模な整地をおこない、7世紀後半にかけて建物を建て替えながら継続的に使用しました。
今回検出したI期の遺構やII期の古い段階の遺構が、蘇我氏の邸宅に関連する可能性も考えられますが、検出した建物はいずれも中小規模です。
また、以前出土した焼けた壁土に関わる焼失建物も、今回の調査範囲では確認されませんでした。
今後も継続して調査をおこない、遺跡の全容を明らかにする必要があるでしょう。
石垣北半(西から)
炉1(南から)
掘立柱建物群(南西から)
石敷(東から)
生産関係品と鉄器
出土した瓦と鴟尾
出土した土器
鍋の出土状況