勝負砂古墳第7次発掘調査 現地説明会

平成19年(2007年)5月20日(日)
主催 岡山大学考古学研究室

※このページの写真、文、図は、すべて当日配布の現説資料(岡山大学考古学研究室)からの転載です。

平成19年5月20日
勝負砂古墳第7次発掘調査 現地説明会資料

はじめに

勝負砂古墳は、岡山県倉敷市真備町下二万字勝負砂(しょうぶざこ)に所在する、古墳時代中期の前方後円墳です。2001年から6次にわたる発掘調査によって、全長42m、後円部径29mで、前方部が低く短い「帆立貝形古墳」とよばれる墳形であることがわかりました。周溝をもちますが、葺石や、確実に古墳にともなう埴輪は発見されていません。

岡山大学考古学研究室では、倉敷市教育委員会・倉敷埋蔵文化財センターの協力を得ながら、第7次調査として、後円部の竪穴式石室の発掘を行っています。

墳丘測量図と調査区および石室位置(赤)

埋葬施設の概要

竪穴式石室は、内法長さ3.59m、最大幅約1.2m、高さは約0.6mです。床面には円礫が敷かれています。四周の壁は、角礫に粘土をはさみ込みながら積み上げ、さらに角礫の隙間に粘土を充填して表面を平滑に仕上げています。側壁の上(天井石の下)と壁面の粘土上面の一部に、石室中軸に沿う方向の木目をもった木材の痕跡がみられることから、石室の設置と構築には、木材が介在していたと考えられます。

側壁上の板材痕跡

石室は、8枚の天井石を架け、その上面の一部に赤色顔料を塗布したあとがみられました。天井石の隙間に小さな円礫や角礫を充填した後に、淡青灰色の粘土で被覆していました。

天井石の架構状態

この石室は、墳丘を完成させた後に墓境を掘り込んで構築するのではなく、先に石室を作って葬送を終えた後に上に墳丘を盛るという、通例とは逆の手順で作られています。現後円部頂から床面までが約4mという異例の深さにあるのはそのためです。

なお、墳丘構築の途中に何度かの停止・整形面があることが、これまでの調査で確認されています。もっとも顕著なのは、石室の真上約1.5mを頂部とする円形土俵状の整形面で、鮮やかな赤褐色の土で盛られていました。

墳丘構築途中の停止・整形面

副葬品の種類と配列

未盗掘の石室内からは、ほぼ完全な状態で、武器・武具を中心とする副葬品と、被葬者の骨などが発見されました。石室内の一部は土がかぶらず、埋葬当時の様子がそのまま残っているという稀有の状況です。

石室平面と副葬品配置図

骨が発見されたのは石室の東端に近い部分で、鏡1面とそれを包む有機質にからんだ状態で、頭骨および上半身の骨の一部と歯が確認できました。

鏡と人骨

その他の副葬品は、石室の西半部に集中します。まず、遺骸の腰から足元あたりにかけて、鉄鏃2束、刀剣2本以上が置かれていました。刀剣にともなう木製の装具もあります。鉄鏃は、長頸式とよばれる細長い型式です。

鉄鏃

これらの西側には、鉄製のよろい1領が前向きに倒れた状態で発見されました。帯状の鉄板を上下にはぎ合わせて鋲で留めた、横矧板鋲留短甲という型式です。表面は有機質で覆われており、包んで副葬されていたと考えられます。

短甲

さらに、短甲の西側、石室の西端近くに、馬具一式が置かれていました。付属具とみられる革製の部材や木質に覆われていますが、金属部分ではっきりとわかるのは轡(くつわ:馬にかませて手綱を取り付ける部分)です。口にかませる鉄の棒(はみ)と、その両側で頬にあてがう鏡板の部分が確認できました。鏡板は青銅製で、S字状の棒の両側に鈴を連ねた珍しい型式のようです。馬具の北側にも一群の鉄鏃があり、長頸式のほか、少数の短茎三角式が含まれています。

青銅製飾りをもつ馬具

その他の武器類として、2本の鉄矛があります。1本は、樹皮とみられるものを巻いた上から黒漆を塗った長い柄をもち、被葬者の足元から石室の南西側に向けて斜めに横たわっています。もう1本の矛は、柄は確認できませんが、先は短甲の北側にあります。

武器以外の副葬品として、短甲の南側の壁際に砥石と土器2点があります。土器は、どちらも土師質の小型の壷で、この時期の副葬品としては稀なものです。

砥石と土器

これら副葬品のほかに石室内から発見されたものとして、鎹(かすがい)および釘状の鉄器があります。鎹は、棺または槨(棺の外枠)の木材の留金具で、石室の側壁沿いに3対・計6本が発見されました。釘状の鉄器は石室の端近くで対になっています。これらを用いた棺または槨の詳細については、石室の壁面や側壁上の木材痕跡と合わせて、今後の課題です。

古墳の年代と意義

副葬品の組み合わせや型式から、勝負砂古墳は、5世紀後半に築造されたものと考えられます。5世紀後半といえば、造山古 墳(墳丘長約360m)、作山古墳(270m)など、吉備中枢部の巨大古墳の築造が下火になりはじめ、周辺の各地に中小の前方後円墳が林立する時期にあたります。勝負砂古墳も、そのような古墳の一つとして、近隣の天狗山古墳(帆立貝形前方後円墳・墳丘長60m)とともに二万地域に築かれた有力者の墓でしょう。

天狗山古墳 竪穴式石室内部
天狗山古墳 竪穴式石室内部
Chamber of Tenguyama tumulus

その被葬者像として、短甲をはじめとする武器・武具の比重が高い副葬品目からみて、武人的な色彩の強い有力者の姿が浮かび上がってきます。とくに短甲は、近畿の勢力が生産と流通を主導したといわれてきた武具で、倭の大王政権との軍事的な結び付きをしめす器物と考えられています。

いっぽう、石室を作った後に墳丘を築くという葬送の手順や、粘土を多用した石室の構築技法などは、朝鮮半島南部に由来するものでしょう。また、石室の構築に木材を介在させるのも、朝鮮半島南部に古い例が認められます。各副葬品の型式や系譜の検討は、多くが今後の課題となりますが、少なくとも、馬具を構成する青銅製の棒状の鏡板は、朝鮮半島に起源が求められる可能性があります。

このように、石室や副葬品からうかがえる勝負砂古墳の被葬者の性格や系譜は単純でなく、一筋縄ではいかないようにみえますが、そのことこそが、5世紀後半の地方有力者がよって立つ基盤の複雑さを表しているかもしれません。すなわち、造山・作山の主に代表される地方の大権威者のような人物が不在になるなかで、それを支えてきた各地域の中堅的な有力者が、列島内外のさまざまな政治勢力と自在に結びつき、地歩を固めながら競い合っていた状況が推測できるでしょう。

勝負砂古墳と地域の歴史

勝負砂古墳は、天狗山古墳とともに、このような激動期の古代吉備勢力の一角をなした有力者の墓であったと考えられます。6世紀に入ると、横穴式石室という新しい葬法が導入され、古墳の意味やそれが物語る社会関係も大きく変動していきます。律令国家に向けての社会の再編成が本格化するのです。

勝負砂古墳の近くでは、6世紀の中ごろ、発達した前方部をもった墳丘長38mの前方後円墳・二万大塚古墳が築かれます。勝負砂や天狗山の有力者の系譜がどのように二万大塚につながるのか、あるいは大きな変化があるのか、さらに詳細な相互の比較研究を通じて、激動期の吉備や日本列島の歴史を復元していきたいと思います。


二万大塚古墳 横穴式石室内部
Chamber of Nima−Otsuka tumulus

勝負砂古墳第7次発掘調査現地説明会資料
2007.5.20
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