下三橋遺跡 第3回現地説明会

平成19年(2007年)6月16日(土)
主催:大和郡山市教育委員会・(財)元興寺文化財研究所

※このページの写真、文、図は、すべて当日配布の現説資料からの転載です。

下三橋遺跡の発掘調査は、大型店舗(イオンモール(株))の建設を契機に、大和郡山市教育委員会と(財)元興寺文化財研究所が実施しています。第1次調査は平成17年6月より翌年3月まで実施しました。調査を通じ、平城京羅城や十条関連条坊遺構が検出されたことから大きな話題を呼び、報道発表および現地説明会をこれまでに2回開催しています。

今回の調査は、第1次調査における未調査部分と、店舗への進入道路部分を調査したものです。調査は4月16日から開始しており、前者は(財)元興寺文化財研究所、後者は大和郡山市教育委員会がそれぞれ調査を担当しました。

平城京条坊復元図(朱線は今回発見の条坊遺構を元に復元した部分)

十条大路の調査

条坊遺構

今回の調査では、初めて十条大路を検出することができました。路面幅は北側溝と南側溝の心々で約15.75m(≒45大尺)を測り、北側溝の北端と南側溝の南端までの距離は17.5m(≒50大尺)を測ります。時期は、側溝中からほとんど遺物が出土しなかったため今回の調査のみでは判断できませんが、周辺条坊の状況から判断して、西暦730年頃までには廃絶したと考えてよいものと思われます。

十条大路以北については、大路と同時期の遺構は検出されておらず、坪内部の利用状況は不明です。いずれにせよ、あまり積極的に宅地などに利用されたとは考えられません。また、道路に面して築地塀などの遺構は検出されていません。

次に十条大路以南については、旧河道が計3本見られるなど、河川敷的な状況であったようです。また、今回は十一条条間北小路の推定地も調査しましたが、遺構は検出されていません。ここでも同様に旧河道が検出されており、あまり安定した土地条件ではなかったようです。これらのことから、平城京の当初の設計は十条であった可能性がきわめて強いものといえるでしょう。耕作遺構 十条大路以北は、条坊の廃絶後に耕地化がなされます。興味深いことに道路部分ときれいに重複する形で水田が造成されており、道路北側溝北端ライン以北は畠となっています。この畠は北の調査区まで拡がっていました。また、道路南側溝南端ライン以南に耕地は拡がっていません。

水田は畔で小面積に区切られた小区画型で、現在のものとは全く形状や水利の異なる水田でした。現在の調査地周辺における条里はいわゆる「京南路東条里=一般条里」と呼ばれるものですが、かつてここにはそれとは全く異なる正方位の耕地区画が存在したというわけです。

その地割りの性格については、一般条里に先行する「京南辺条条里=特殊条里」の可能性が強いと考えられます。現在、京南特殊条里南端の坪は南北幅が35mくらいしかない変型したもので、ここに東西方向の道路があったとする見解もあります。しかし、これを通常の南北幅(約106m)まで延長すると、その南端はほぼ今回発見された十条大路の南端に一致します。したがって、その生成要因に種々の見解があった特殊条里とは、実は十条条坊を耕地化したものとして捉えることができそうです。その南端の坪が約2/3失われた理由は、特殊条里に遅れて一般条里が施工されたため、その部分の地割りが消滅したと考えることで説明できるでしょう。すなわち、地割りの順序としては、十条条坊→特殊条里一一般条里としてよいものと思われます。

次に、条坊遺構が耕地化された時期ですが、残念ながら耕作土やそれを埋めた洪水砂から遺物がほとんど出土しなかったため明確にはできません。しかし、道路面を明らかに意識していることから考えて、条坊の廃絶後それほど長い時間が経過したものとは思われず、九条以北がまだ存続していた奈良時代か、もしくはその直後を想定するのが妥当でしょう。

◇小結

今回の十条大路の発見により、十条条坊はその廃絶時期の早さという要素を除くと、九条以北の条坊と特に異ならない区域であったということが明確になりました。さらに今回の調査では、特殊条里の生成背景や一般条里の形成時期についても、非常に説得力に富む見解が得られました。今後の課題としては、南北道路と十条大路の交差点部分の調査(南限十条の確定)、さらに平城京右京における十条条坊遺構の有無確認があげられます。

XW調査区遺構全体図(S:1/250)

十条条間北小路と東二坊坊間西小路交差点の調査(XW調査区)

条坊遺構

下三橋遺跡ではこれまでに条坊道路として十条条間北小路・十条条間路・十条条間南小路、東一坊大路・東二坊坊間西小路・東二坊坊間路・東二坊坊間東小路が見つかっており、九条大路以南における条坊区画の存在が明らかになっています。XW調査区では、第一次調査XC調査区検出の十条条間北小路と、第一次調査XL調査区検出の東二坊坊間西小路の交差点を新たに発見しました。

十条条間北小路

十条条間北小路は東西方向の道路で、北側溝が2本あり、東二坊坊間西小蕗路面を突き抜けています。南側溝は後世の耕作で大半が削られていましたが、わずかに西端が残っており、北側溝1(2本ある北側溝のうち北側のもの)との溝心々間隔はちょうど7.1m(20大尺)です。溝の規模は北側溝1が幅130cm、北側溝2が幅90cm、南側溝が幅100cmを測ります。

東二坊坊間西小路

東二坊坊間西小路は西側溝のみ検出し、東側溝は現在の道路の下にあるものと思われますが、これまでの調査で側溝心々間7mであったことが判明しています。西側溝は幅110cmを測り、十条条間北小路北側溝1との交点付近で細くなっています。

交差点より南側は後世の耕作により削られて消滅していますが、このことは平城京建設当時この場所が微高地であったことを示しています。さらに推定すると、平城京を建設した当初はこうした地形の起伏を残したまま都を造っていたといえます。

坪内の利用状況

これまでの調査でも指摘されていたことですが、坪内には二間×二間の小規模な掘立柱建物が1棟あるのみで、きわめて希薄な利用状況です。

遺構の年代と廃絶状況

上記の遺構群はいずれも粘土ブロックを大量に含む土で人為的に埋められています。今回の調査では土器がほとんど出土していませんが、これまでの調査の結果を参考にすると710年〜730年までの短期間の間に埋められたと考えられます。

密集土坑(粘土採掘坑?)

調査区南半分では約30基の密集土坑が見つかりました。これらは断面がフラスコ状に広がる形を呈し、粘土層のみに存在することから、瓦や土器を焼いたり築地を塗ったりする粘土を採掘した痕跡と考えられます。ただしいくつかの土坑からは灰と多数の土器が出土することから、粘土採掘に際して何らかの祭祀を行ったか、粘土採掘以外に用いられた土坑があった可能性もあります。これらは道路側溝を切って、路面から坪内に至るまで無秩序に広がっており、条坊廃絶直後の遺構であることがわかります。

◇小結

今回の調査で新たな交差点が確認されたことから、十条区域における条坊区画の規模をさらに詳細に検討する資料が得られました。1次調査で見つかった東一坊大路交差点中心と今回検出された交差点中心は東西方向で約132.8mを測り、予想される数値とほぼぴったり整合します。条坊施工に際しての測量技術の高さを示しています。

このほかにも今回条坊遺構が後世の耕作で削られていることが判明したことから、平城京造営当初、この地域では大きな地形の平坦化などを行わずに条坊を施工していることが明らかになりました。このことは条坊施工方法の一端を知る資料となります。

粘土採掘坑の存在は、条坊放棄後の土地利用のあり方を示すものです。これまでの調査でも条坊廃絶後部分的に水田化が行われるものの、非常に開田率の低い状況であったことが判明していますが、粘土採掘坑の存在も水田化が限定的なものであったことを間接的に示していると思われます。

下三橋遺跡1・2次調査全体図(S:1/3000)
下三橋遺跡1・2次調査全体図(S:1/3000)