平成19年8月25日
池田市教育委員会
※このページの写真、文、図は、すべて当日配布の現説資料からの転載です。
池田城跡(いけだじょうあとはじめに)は、室町時代に池田市域から豊中市域・箕面市域の一部を支配した国人(こくじん・くにうど=有力農民層などから成長し、現在の市町村くらいの範囲を支配下においた在地領主。)池田氏(いけだし)の居城跡(きょじょうあと)です。
室町時代、旧摂津(せっつ)国(現在の大阪府北部から兵庫県南部)には池田氏のほか芥川氏(あくたがわし)、三宅氏(みやけし)、茨木氏(いばらきし)、吹田氏(すいたし)、伊丹氏(いたみし)、能勢氏(のせし)、瓦林氏(かわらばやしし)といった国人が摂津守護(しゅご)大名細川氏の家臣(かしん)として支配していました。
図1 池田城跡復元図(採取段階)
池田氏は鎌倉時代の文書(もんじょ)にその名が登場、室町時代には荘園侵略(しょうえんしんりゃく)や高利貸(こうりが)し経営などでかなりの財力をもち、守護大名細川氏の有力家臣に成長しました。1467年、室町幕府の実力者細川勝元(ほそかわかつもと)と山名宗全(やまなそうぜん)が争い応仁(おうにん)の乱(らん)がおこりました。池田氏の棟梁(とうりょう)であった池田充政(みつまさ)の家臣(かしん)であったため、山名方の大内氏に攻められ池田城が落城しました。大内氏は池田にとどまらなかったため池田氏はすぐに池田城に入ることができたのですが、応仁の乱終息後(しゅうそくご)、今度は細川氏内部の争いに巻き込まれます。争いの発端は細川澄元(すみもと)と細川高国(たかくに)よる家督(かとく)争いでしたが、やがて諸国の国人を巻き込む戦乱へと拡大していきました。池田氏は澄元についたため、1508年高国方に攻められ、池田一族の池田正盛(まさもり)の寝返りにより池田城は落城、城主貞正(さだまさ)(充政の子と思われる)は自害(じがい)しました。その後、池田正盛が高国方として池田城に入りましたが、1519年、貞正の子信正(のぶまさ)(貞正の子か。系図では久宗(ひさむね)とあるが信用できる史料に久宗の名はみられない)が池田城を奪回(だっかい)しました。戦乱は細川高国と細川澄元の子晴元(はるもと)の争い、細川氏綱(うじつな)を擁(よう)する三好長慶(みよしながよし)と晴元の争いへ、そして長慶没後の三好三人衆と松永久秀(まつながひさにげ)の争いへと移り、池田氏ら国人は敵味方に分かれ争いに巻き込まれました。1568年、織田信長(おだのぶなが)が足利義昭(あしかがよしあき)を擁して京へ上洛、摂津は三好三人衆の勢力下にあったため、これを排除するため摂津へ攻め込みます。はとんどの城は織田方の手におちたのですが、当時の城主池田勝正(かつまさ)は抵抗(ていこう)し織田方に攻められて降伏(こうふく)します。そして、織田方の家臣になって各地を転戦(てんせん)させられます。こうしたなか、1570年、池田氏内部で三好派の荒木村重(あらきむらしげ)ら池田二十一人衆がクーデターをおこし、城主勝正を追放、弟の知正(ともまさ)を城主にし、池田氏は荒木村重の支配下に組み込まれました。村重は高槻の和田惟政や茨木城の茨木重親(しげちか)を倒すなど織田方に敵対していましたが、とつじょ織田方の家臣になり、室町幕府が滅んだ1573年に摂津守(せっつのかみ)に任じられ戦国大名なりました。翌年、伊丹氏を滅ぼした村重は伊丹城に入って有岡城(ありおかじょう)にあらためてここを摂津支配の拠点(きょてん)にしたため、池田城は廃城(はいじょう)されました。ただし、池田城は歴史から消えたわけではなく、1578年、謀反(むほん)をおこした荒木村重を攻めるため、織田軍が有岡城攻撃をする時「古池田(ふるいけだ・こいけだ、読みかた不明)」に陣(じん)を敷いたと記録(『信長公記(のぶながこうき)』)にあり、廃城になっていた池田城跡を改修して陣を敷いたと考えられています。
池田城は城山町・建石町の台地西側にあります。この台地は西側に崖(がけ)、北側に川による谷があり、これを防御(ぼうぎょ)施設として利用し、東側と南側の起伏(きふく)のゆるやかな場所には堀や切岸(きりぎし)を幾重(いくえ)にももうけて築城(ちくじょう)しています。城域(じょういき)は東西約330m、南北約550mあります。
主郭(しゅかく)(城の中心部・本丸(ほんまる))は現在の城跡公園で、今までの発掘調査により主殿(しゅでん)(中心となる大型建物)やこれについた建物跡、井戸、庭園、排水溝(はいすいこう)などを検出(けんしゅつ)しています。また、落城を示す焼土層(しょうどそう)や炭層と復興(ふっこう)のための整地層(せいちそう)がありました。城の南側には街道(かいどう)(後の能勢街道(のせかいどう))が通っており、城に入る場所は道を屈曲(くっきょく)させて敵を攻撃できるようにしています。争い際には街道を遮断(しゃだん)させたものと考えられます。
民間の開発に伴い、本年6月20日より発掘調査を行っております。調査面積は約700m2です。 今回の調査地の東隣(となり)は、4方向に伸(の)びる堀(ほり)と、橋げた跡から堀に橋が架(か)けられていたことが判明し、池田城の大手(おおて)(城の正面口)ではないかと考えられていました。したがって、この調査で大手の形状がわかるのではないかと期待していました。
調査地は、以前、池田師範学校附属小学校(現・大阪教育大学附属小学校)があったため、建物基礎やゴミ穴などが多数あり、また、上面が相当削られており、遺構の保存状態は良くありませんでした。
図2 調査地平面図
幅5〜6m、深さ2.5mで、断面(だんめん)は逆台形(ぎゃくだいけい)をしています。この堀は調査地西側では確認できませんでしたので西側台地縁辺まで行かず途切れています。底には灰色の粘土が堆積(たいせき)しており、湧(わ)き水があって少し水がたまっていたようです(水堀とまでは言えませんが、中に入ると足をとられて動きにくかったものと思います)。
堀1の埋まった土層をみると、南側から土砂が流れ落ちていることがわかります。また、堀1に南側に沿って幅3〜3.5m、高さ15〜20cm程度の高まりがありますので、上部が削(けず)られてしまった土塁の痕跡(こんせき)と考えられます。
堀3改修した堀です。幅3〜4m、深さ1.8mの堀で断面は逆台形をしています。西側隣接地の調査では検出していませんので、途切れています。堀2から少量ですが瓦が出土しています。上記の土塁との間は1m〜2mで通路と思われ、細かい砂混じりの粘土による整地が施されています。
幅3m、深さは北側の上端で1mを測ります。比較的細い堀で、若干蛇行(だこう)しています。堀の北岸に沿って柱穴があるため、柵列があったものと思われます。西側の調査地では、この堀3は一旦北に曲がって再度西へ向かっていましたが、深さ90cmで斜面はややゆるくなっていました。堀2、堀3から南側は旧地形が南方へゆるく傾斜しているため、整地して平坦にした後に堀3が掘られています。整地内には炭や焼け土が混じっています。また、16世紀半ば〜後半の土師器皿(はじきざら)を廃棄した土坑(どこう)(穴)がありました。
古い段階の堀は小規模な堀3です。整地で平坦面にしたうえで堀を掘っています。ただし、堀は浅いので、堀で敵の侵入を阻止(そし)するというより、侵入してきた敵の歩行を遅らせるためと思います。西側の調査地で堀3が屈曲し、しかも斜面がゆるやかになっており、このあたりに曲輪に入る入口が設けられたものと推定されます。おそらく、池田氏段階の大手は、西側から一旦南に曲がり、上記の堀3が屈曲した箇所を上がる形状でぁったものと思われます。堀3の南側整地土上に16世紀半ば〜後半の土師器皿(はじきざら)の廃棄土坑(はいきどこう)(穴)がありましたので、この大手は池田城廃城時のものと堆定されます。
堀1および堀3を改修して堀2が掘られます。そして堀1の南に土塁を盛ります。池田氏段階では南からのルートでしたが、堀の南に土塁を設けることから堀の北側に入口に存在することになり、北側の堀切りを登るルートに変更されたことがわかります(北側の堀切りもこの段階につけられたものか?)。
平野部から登るこの堀切りは両側の上方からの攻撃にさらされます。堀切りを登りきると右手に曲がります。そこは少し広い空間になりますが、北側は崖面、東側は堀によって遮(さえぎ)られます。城道は堀1・土塁・堀2によって侵入口を潜めるとともに外枡形(そとますがた)の形状にして防御(ぼうぎょ)機能を高めています。堀1の南の土塁は入口内部の見通しを遮(さえぎ)り、堀2で進入路を一旦せまくし、また少し広い空間にしており、ここから外に向かって撃(う)って出やすくしています。曲輪全体が大手虎口として機能しており、前段階とくらべて発達した防御といえます。
なお、堀1にみられる曲輪(くるわ)(崖(がけ)や堀などでかこまれた平坦部(へいたんぶ))の中央を東西に分離(ぶんり)して進入口を狭(せば)める方法は、主郭(しゅかく)(城の中心)の中央に彫られた堀に共通するものです。また、堀1.2の形状も逆台形の整然とした点で共通しています。いっぽう、池田氏段階の堀は斜面の凹凸があって浅く雑(ざつ)な掘り方をしています。主部中央の堀は、主殿(しゅでん)がなくなってから掘られたもので、1578年の織田信長による有岡城攻撃の際、織田方が池田城に陣(じん)を敷(し)いた時のものと考えています。したがって、堀1、2も織田信長の陣に伴うもので、大手の改修は陣の時のものではないかと思われます。
図3 織田信長の回収による池田城大手虎口復元図