平成19年(2007年)9月17日(月)
高島市教育委員会
※このページの文、図は、すべて当日配布の現説資料からの転載です。
遺跡名 | 田中古墳群(36号墳) |
---|---|
所在地 | 滋賀県高島市安曇川町田中 |
調査原因 | 市道新田中野線道路改良工事に伴う発掘調査 |
調査機関 | 高島市教育委員会 |
調査期間 | 平成19年5月7日〜9月末(予定) |
調査面積 | 約165m2 |
田中古墳群は、田中神社の北側丘陵一帯の泰山寺野(たいさんじの)台地の東端部に分布します(第1図)。昭和45年の滋賀県教育委員会の分布調査により43基の古墳が確認されました(第2図)。古墳群のほぼ中央には田中王塚古墳が位置します。田中王塚古墳は、直径約58m・高さ約10mの2段築成の帆立貝形の古墳です。築造時期は、墳丘形態や表面採集された埴輪片などから5世紀後半と考えられます。
現在、周囲の古墳3基とともに、継体天皇の父「彦主人王(ひこうしおう)」の陵墓参考地として宮内庁の管理下にあります。その他の古墳は、直径約10〜15m、高さ約1〜3m程度の方墳または円墳です。築造時期は、表面採取された土器・(須恵器)などから6世紀前半とされ、埋葬施設は大半が木棺直葬であろうとされてきました。
今回、当古墳群において初めて本格的な発掘調査が実施され、初めて横穴式石室の存在が確認されました。また、古墳の分布状況を確認したところ、西南方向に新たな古墳状の高まりが数基認められ、古墳の総数が増えることが考えられます。
第1図 田中古墳群位置図
第2図 田中古墳群分布図(県教委:1971年より)
測量を実施した結果、規模は直径24m、高さ2〜4mを測ります。墳形は円墳と考えます(第3図)。墳丘は旧地形を利用し、盛土によって成形されて、黄褐色粘質土・灰色粘質土・黒ボク等を約10〜15cm程の厚さで交互に盛り土しています。
花崗岩質の石を面取り、加工した石材で構築された横穴式石室です。現状は、羨道部、玄室西側壁、奥壁、奥室(遺骸を安置した空間)は良好に残存しますが、天井石・東側壁は石取りされています。
石室は、地山を掘り込んで窪めた箇所に据えた基底石の上から積み上げて構築しています。積み上げた石は、幅20〜90cm・厚さ8〜20cmの比較的小型の石材を利用しています。石室床面には3〜10cm程の川原石による礫が敷かれています。
規模は現存長で、羨道長3.4m・幅1.1m、玄室長3.4m・幅1.9m、奥行1.1m・幅2.1mを測ります(第4図)。平面形態は、玄室の奥壁側に玄室より幅広い奥室を設け、さらに仕切り石を配して、独立した空間を構築しています。東側壁は、基底石の抜き取り痕跡から、奥壁から羨道まで、ほぼ直線でした。奥室床面は玄室床面より一段高く(高さ約10cm)、床面および壁面には赤色顔料(ベンガラ)が塗布されています。
石室内からは、礫敷きの直上から遺物が出土しました。遺物は、玄室の袖石付近および仕切り石付近で多く出土しました。袖石付近では、馬具類が重なり合うように出土しました。確認された馬具は、鐘形鏡板付轡(かねがたかがみいたつきくつわ)、環状鏡板付轡(かんじょうかがみいたつきくつわ)、雲珠(うず)、絞具(かこ)、辻金具(つじかなぐ)、鞍金具(しおでかなぐ)、飾金具(かざりかなぐ)が出土しました。鉄地に金銅を貼り付けて鋲で留めています。
仕切り石付近では、須恵器が出土し、坏蓋、坏身、無蓋高坏、有蓋高坏、短頸壷、台付直口壷、はそうなどが出土しました。いずれも6世紀後半のものです。この他にも、玉類(土玉)、鉄鏃、刀子(とうす)、滑石製紡錘車(かっせきせいぼうすいしや)、耳環、鉄釘などが出土しました。
第3図 田中古墳群(36号墳)測量図
第4図 三次元測量データによる石室実測図(上段:立面・下段:平面図)
田中古墳群は、宮内庁陵墓参考地である田中王塚古墳の周辺に営まれた小型の方墳および円墳を中心とする古墳群で、主に5世紀後葉から6世紀前葉頃に造られたと考えられてきました。
今回の36号墳発掘調査によって田中古墳群において初めて埋葬施設の状況が明らかにすることができました。
確認された横穴式石室は、遺骸を安置する空間を玄室の奥に設けるなど類例が確認されない特異な構造でした。
36号墳築造時期は、出土土器から6世紀後半と考えられます。豊富な副葬品から、この時期の首長墓のひとつと推測されます。
周囲には、継体天皇関連の伝承や史跡が多く存在し、その立地からも高島平野南部一帯を治めた三尾氏族の首長墓と推定されます。
彦主人・継体父子を支えた三尾氏が継体朝以後もこの地において勢力を掌握していたことを示しています。
その意味では、36号墳の発見は、田中古墳群に対する認識を大きく変え、今後の調査・研究によって、三尾氏と継体天皇について重要な手がかりを提供してくれる可能性のある古墳と考えます。
今回の調査結果は、謎の多い継体天皇に関する研究を進める上でも、当該地の地域史を考える上でもきわめて貴重な新資料と考えます。