長尾山古墳第1次調査 現地説明会

平成19年(2007年)9月22日(土)
大阪大学文学研究科考古学研究室

※このページの文、図は、すべて当日配布の現説資料からの転載です。

目次

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はじめに

 大阪大学考古学研究室は、宝塚市教育委員会の協力を得て、8月末より兵庫県宝塚市山手台に所在する長尾山古墳(ながおやまこふん)の測量・発掘調査を開始しました。その結果、古墳の形と規模、さらに古墳に伴う埴輪から古墳築造(ちくぞう)時期が推定できました。本日はその成果を現地にて公開させていただきます。

調査の目的

およそ3世紀中葉から7世紀にあたる古墳時代の歴史を解明するためには、奈良県や大阪府南部に所在する巨大な古墳の分析だけではなく、地域の古墳の動向を調べることも重要です。大阪大学考古学研究室では、25年以上にわたって古墳の発掘調査を行ってきましたが、近年は西摂・猪名川(いながわ)流域(兵庫県南東部〜大阪府南西部)をフィールドとして古墳時代に活躍した地域の首長の基である古墳の動向を継続的に調査、研究しています。

猪名川流域の地域には、古墳時代前期から終末期にいたるまで数多くの古墳が築造されています。しかし、古墳の分布と時期を検討すると、豊中台地(豊中市中部)、待兼山(まちかねやま)丘陵(豊中市北部・箕面市西部)、猪名川左岸から北摂山塊にかけての池田(池田市)、猪名川中流域の猪名野(伊丹市)、そして長尾山丘陵(川西市・宝塚市東部)といったエリアで、古墳の築造に盛衰が認められます(図1)。

図1 猪名川流域の主要な古墳(自抜は時期不明)
図1

古墳時代前期(3世紀中葉から4世紀後葉)には、豊中台地に大石塚(おおいしづか)古墳(11、以下の番号は図1に対応)と小石塚(こいしづか)古墳(10)、待兼山丘陵に待兼山古墳(8)と朝田御神山(おがみやま)古墳(9)、池田に池田茶臼山(ちゃうすやま)古墳(5)と娯三堂(ごさんどう)古墳(4)、猪名野(いなの)に池田山古墳(23)、宝塚市中部には安倉高塚(あくらたかつか)古墳、そして長尾山丘陵に万頼山(ばんらいさん)古墳(2)が築造されています。古墳時代前期を4つの時期に区分すると、池田茶臼山古墳、待兼山古墳は副葬品(ふくそうひん)や埋葬施設(まいそうしせつ)、埴輪(はにわ)からすこし古く位置付けられますが、おおむね3期にそれぞれのエリアに古墳が築造されていることがわかります。一方、古墳時代中期(4世紀末葉から5世紀末葉)になると豊中台地では豊中大塚古墳(12)、御獅子塚(おししづか)古墳(13)など、猪名野では伊居太(いけだ)古墳(25)、御願塚(ごがづか)古墳(19)など古墳が引き続いて築造されますが、池田や長尾山丘陵では古墳は築造されていません。こうしたありかたは、猪名川流域の各地域の首長層の盛衰(せいすい)をあらわしていると考えられますが、背後には中央政権との関係の変化や中央政権内部での権力交替が影響した可能性があります。

このことを明らかにするためには、各地域ごとの古墳の築造時期や内容を把握することが必要です。しかし、この長尾山古墳にかんしては発掘調査が一度も行われていないため、これまでは漠然と4世紀末から5世紀初頭かといった築造時期が推定されてきたにすぎません。そこで大阪大学考古学研究室は、猪名川流域の首長系譜を考えるうえでの基礎資料を充実させるため、今年度から長尾山古墳の測量調査・発掘調査に着手しました。

(中久保辰夫)

長尾山古墳調査略史

長尾山古墳は1960年代までは前方後円墳と考えられてきましたが、1969〜70年に行われた宝塚市教育委員会と夙川学院短期大学考古学研究会の測量調査により、前方後方墳である可能性が指摘されました。この時の調査では、墳丘の規模が長さ 36m程度と推定され、また古墳の頂上部分に埋葬施設の一部が見えていたとされます。しかしその後、発掘調査をはじめとして調査はいっさいなされておらず、正確な墳形・墳丘規模や時期など、その全容は謎に包まれたままでした。長尾山古墳の存在は、前述のように古墳時代の歴史、猪名川流域の歴史を探るうえでも重要なポイントとなります。大阪大学考古学研究室では、2000〜2004年にかけて行った川西市勝福寺古墳の調査において6世紀の長尾山丘陵の様相を明らかにしましたが、これに引き続いて、長尾山古墳についても測量・発掘調査することにしました。

(田中由理)

古墳の形と構造

今回の調査により、墳丘(ふんきゅう)について新たな事実がいくつも判明しました。以下にくわしく説明します。

形の手がかり

まず、墳丘測量の結果、図2の測量図中央付近で標高(ひょうこう)116〜118mの等高線(とうこうせん)が間隔をせばめ、南東側へ広がる様子が確認されました。ここより北側では標高121m付近で平地面が形成され、南側では緩やかな僚斜が続くことから、北側が後円部、南側が前方部であると想定されました。前方部東側の117.5m付近で地表検出された葺石(ふきいし)の残存と考えられる礫の並びなどもこの想定を裏付ける根拠となります。

図2 長尾山古墳測量図(S=1/300)とトレンチ配置図
図2

また、発掘調査の結果、各調査区で葺石の基底石(きていせき)が検出され、とくに西クビレ部や前方部の調査結果から長尾山古墳が少なくとも二段以上の築成であることが明らかになりました。各段の標高は前方部では一段目が116m付近、二段目が116.5m付近にあたり、西クビレ部で一段目がおよそ117m付近、二段目が117.5m付近、後円部ではおよそ117.5〜118mにあたると考えられます。

古墳の形については、葺石が良好に残存していた西クビレ部第1・2トレンチでの成果が注目されます。西クビレ部第1トレンチでは前方部のクビレ部付近に相当すると考えられる基底石の列が検出されました。西クビレ部第2トレンチでは基底石が北西側に円弧を描いて広がる様子が観察され、後円部に相当すると考えられます。両調査区で検出された石列の位置関係から、この古墳が前方後円墳であることがほぼ確実になりました。

規模の手がかり

続いて古墳の規模ですが、前方部第1トレンチでは前方部の端と考えられる石列が検出されており、古墳の南側の端を確定することができました。後円部第1トレンチでは原位置からやや流出しているものの、葺石どうしが組み合った状態をよく保つた礫群が多数検出され、この礫群よりも上方(南側)に本来の復円部の北端があったことが推定されます。このニケ所の調査地点の成果から、古墳の墳丘長が約38mであることが判明しました。

(高上 拓・野島智実)

古墳の外表施設

長尾山古墳では二段の葺石が確認され、一段目(下位)の葺石斜面と二段日(上位)の葺石斜面の間にはテラス面(平坦面)が設けられていました。このテラス面には埴輪(古墳の外面を飾るための土製の焼き物)が樹立されていたことも確かめられました。

古墳築造当初の葺石は前方部第1トレンチと西クビレ部第1・2トレンチで確認されています。二段目の葺石は残存状況がよく、もっとも残りのよい部分では4石分の石積みが認められます。使用されている石材は最大で40cmほどとなっており、基底石には大きな石材が使用されています。

これに対して一段目の葺石は残存状況があまりよくありませんでした。一段日の葺石の基底石と考えられる石は数箇所(すうかしょ)で確認することができましたが、多くの石は流出して失われていました。なお後円部のほかのトレンチでは、もとの位置を完全にとどめている葺石は確認できませんでした。僚斜の急な地形であることから葺石や埴輪の多くはすでに流出してしまったようです。

テラス面は西クビレ部第1・2調査区で確認され、墳丘築造当時の位置で埴輪の底の部分を確認することができました。西クビレ部第1トレンチで1本、そして西クビレ部第2トレンチでは2本の埴輪が確認されました。

(前田俊雄)

みつかった遺物

今回の発掘調査では多数の埴輪が出土しています。全体像を復元できる個体は現段階では不明なので、ここでは埴輪の部位ごとに紹介していき、長尾山古墳の埴輪の特徴について述べたいと思います。

図3 長尾山古墳出土埴輪(S=1/4)
図3
口縁部:1、2.西クビレ部第1調査区
頸部:3.後円部第1調査区 4.西クビレ部第2調査区
突帯:5.後円部第1調査区 6.西クビレ部第2調査区 7、8.西クビレ部第1調査区
底部:9.西クビレ部第1調査区 10.後円部第1調査区

埴輪の上端にあたる口縁部(こうえんぶ)は、二重口線状に大きく外側にひらくものが認められます。それらには口縁部下端に突帯を粘り付けないもの(図3−1)と貼り付けるもの(2)に大別できます。また、朝顔形埴輪(上方がラッパ状にひらき、朝顔の花が咲いているような形状をもつ埴輪、4世紀初頭に出現し、6世紀まで古墳で使用される)とみられる頸部(けいぶ)の破片もみつかっています。厚さが薄いもの(3)と厚いもの(4)に分けられます。

突帯(埴輪の表面に貼られた凸状部分、タガとも呼ばれる)も多数みつかっています。なかでも図3−5〜7は突帯の先端が上方に突出し、横から見ると「L」字状を呈しているものがみつかりました。これについては次のような理由から初期の朝顔形埴輪の一部であると判断できます。朝顔形埴輪は元々、土器を載せる器台のうえに壷が載(の)った状況を一つの埴輪で表現したものです。したがって、図3の5〜7は、もともとは器台口縁部であった部分を表現していると考えられます。このような特徴をもつ朝顔形埴輪は非常に少なく、わずかに奈良県天理市東殿塚古墳、大阪府柏原市玉手山3号墳でみつかっているにすぎません(図4)。これらはいずれも4世紀初頭に築造された古墳であることから、この長尾山古墳も同時期に築造された古墳である可能性が高いと考えられます。

図4 古墳時代前期中葉の朝顔形埴輪(S=1/12)
図4

また、休部の内面には、ヘラケズリを行っている個体が多く認められ、当古墳出土埴輪の大きな特徴といえます。

(酒井将史・田村美沙・木村理恵)

まとめ

今回の発掘調査により、これまで実態が不明確であった長尾山古墳が猪名川流域では最古の前方後円墳であり、葺石と古相の埴輪をそなえていることが判明しました。これにより、従来の周辺古墳の調査成果とあわせて猪名川流域の古墳時代政治史のほぼ全体像をとらえることができるようになった点に大きな意義があります(図5)。

図5 猪名川流域における首長基の盛衰
図5

しかも、以下に述べるように、この地域の諸勢力の推移が大和政権内の主導権争いとも連動していた可能性が高まり、日本列島全体の古墳時代史を解明する有効な地域研究が期待できるようになりました。

<古墳時代前期:大和政権との連携の始まり>

猪名川流域では古墳時代前期(4世紀)の有力古墳は、支流の小河川に隔てられた豊中台地(豊中市桜塚(さくらづか)古墳群中の大石塚古墳/前方後円墳/76m、小石塚古墳/前方後円墳/49m)、待兼山(まちかねやま)丘陵(待兼山古墳/前方後円墳?/60m程度)、池田市域(池田茶臼山古墳/前方後円墳/62m)、長尾山丘陵(万頼山(ぱんらいさん)古墳/前方後円墳/54m)などにそれぞれ営まれていました。これら諸首長の先陣を切って、前方後円墳という大和政権の葬送儀礼をいち早く受け入れたのが長尾山古墳の被葬者なのです。

<古墳時代中期:台頭する河内努力との連携>

しかし、猪名川流域の各首長系譜では古墳時代中期(5世紀)になると、各地に点在していた有力古墳は途絶え、南の猪名川中流域の豊中市桜塚古墳群と伊丹市南部から尼崎市域に広がる猪名野(いなの)古墳群にのみ有力古墳が集中して築造されるようになります。桜塚古墳群や猪名野古墳群は、5世紀に大和政権のなかで主導権を握った河内の勢力と緊密な関係をもって地域内で勢力を増したと考えられます。

<古墳時代後期:継体(けいたい)大王の登場と系列の交替>

6世紀前葉になると、桜塚古墳群や猪名野古墳群は衰退傾向が顕著となり、これと入れ替わるようにふたたび猪名川上流域の長尾山丘陵や池田市域に勝福寺古墳や二子塚古墳などの有力古墳が現れます。これも6世紀前葉に大和政権の主導権をあらたに握った「継体大王」の登場によって有力地域首長の系列が変動したものととらえられます。

(福永伸哉)

今後の課題

今年度の調査では、上記のような様々な成果をあげることができました。

ただし、今回は主に墳丘西側に調査区を設けたにすぎません。古墳の詳細な形態の情報を得るためには、墳丘の東側や墳丘上部の段築のありかたを解明しなければなりません。

また、30年前の観察では後円部墳頂(ふんちょう)に粘土槨(ねんどかく)が露出していたと指摘されています。現状では、そのような痕跡は確認できませんが、この埋葬施設の残存状況を確認することも、今後に残された大きな課題といえます。

長尾山古墳は猪名川流域に残された数少ない前方後円墳であり、何よりも山手台東南公園に隣接した誰もが気軽に立ち寄る場所に立地しています。古墳からは眼下に大阪国際空港、そして梅田や難波のビル街という 21世紀の街並みとともに、生駒山から二上山に続く山並み、そして大阪湾と、淡路島という1700年前と変わらない景観が共存しています。この素晴らしい景観とともに貴重な古墳を保存しつつ、適切な歴史的評価を与え、地域の文化財として活用していくお手伝いが出来ることを願っています。

(寺前直人)

謝辞

今回の測量・発掘調査にあたって宝塚市教育委員会、宝塚市公園課、樺守の会、山手台東自治会、小浜自治会のご協力を賜りましたことに感謝申し上げます。(調査団一同)