上里遺跡発掘調査現地説明会資料
2007年12月1日
※このページの文、図は、すべて当日配布の現説資料からの転載です。
所在地 | 京都市西京区大原野上里南ノ町地内 |
期間 | 2007年5月〜継続中(12月末終了予定) |
調査面積 | 約1,500m2 |
調査機関 | 財団法人京都市埋蔵文化財研究所 |
この調査は道路建設(伏見向日町線)に伴うもので、2003年から開始し、順次調査を進めてきました。本年度の調査地は、長岡京跡の右京二条三坊一町・八町、そして縄文時代から古墳時代の集落遺跡(上里(かみざと)遺跡)にもあたっています。本年6月に実施した現地説明会では、長岡京時代の状況を見ていただきました。
その後弥生時代の調査を経て、現在、縄文時代晩期(今から3,000から2,500年前)の調査を行っています。昨年実施した西隣の調査では、同じ縄文時代晩期の竪穴住居(たてあなじゅうきょ)7棟、土器棺墓(どきかんぼ)(土器を棺として用いた墓)6基、土壙墓(どこうぼ)(穴を掘って埋葬した墓)3基などが見つかっています。今回の調査でも、竪穴住居、土器棺墓、土坑(どこう)(人工的に掘った穴)、大溝、炉跡(ろあと)などが見つかりました。
竪穴1294は、東西3.8m、南北4.5mの楕円形で、床面の中央東寄りに炉跡があります。また、調査区の西端の落ち込みは、昨年度調査で検出している竪穴149の一部と考えられます。
土器棺墓は、調査区の西部と東部で見つかりました。西部には土器棺墓967・968・1064・1271・1452があります。東部には土器棺墓340・349・354・436・845・978・1010・1078、ややはなれて土器棺墓855があります。土器棺墓には、一個の土器をまっすぐに立てて埋めるもの(土器の底があるものとないもの)、斜めに埋めるものや複数の土器を組み合わせるものがあります。
土器棺墓1283 |
土器棺墓1271 |
土器棺墓845 |
土器棺墓1078 土器棺墓978 |
土器棺墓1010 |
土坑は、さまざまな形のものが調査区全体に多数見つかっています。
土坑1532 |
土坑1385 |
土坑1298 |
調査地の東半と西半に一条ずつ見つかりました。東半の大溝1215は、北西から南東へ、途中で東へ向かいます。幅8〜10m、深さは1m近くあり、東へ向かって浅くなっています。西肩には多くの土器や石器、炭などが堆積しています。西半の大溝1067は西から東へ、途中から南へ湾曲してさらに東へ向かっています。幅は、西側で3〜3.6m、深さ0.5m、東では幅約2m、探さ0.8mあります。全体が土器・石器・炭を多く含む土で埋まっていました。
大溝1215 (東から) |
大溝1215 (北から) |
大溝1215 地層断面 |
炉跡は、1133・1311・1280・1326・1459などがあります。とくに炉跡1326は、直径0.8mで周囲に石を置き、底部の土は高温で焼け、赤色から橙色に変色し固まっていることから、土器を置いて煮炊(にたき)きをした炉跡と考えられます。炉跡1280も同様の石囲いのものです。
炉跡1326 |
炉跡1280 |
深鉢(ふかばち)・浅鉢(あさばち)など、縄文時代晩期の中頃(滋賀里(しがさと)III a式〜III b式)の土器が多量に出土しています。土器の中には、生駒山(いこまやま)の西側地域に特有の粘土を用いたのものも含まれています。
石皿/磨石(すりいし)/砥石 |
土器棺墓340出土の土器棺 |
土器棺墓349出土の土器棺 |
大溝1067出土の土器 |
石鏃(せきぞく)、石錐(せきすい)、石斧(せきふ)、磨石(すりいし)、凹(くぼ)み石、石皿(いしぎら)、砥石(といし)、台石(だいいし)、敲石(たたきいし)、石錘(せきすい)、石棒(せきぼう)(石刀(せきとう))などがあります。とくに石鏃が多く、他のものはほとんどが破損した状態で見つかっています。石鏃はほとんどがサヌカイト製で、産地は大阪府の二上山(にじょうざん)のものと香川県の金山(かなやま)のものがあるようです。
石鏃(せきぞく) |
石鏃(せきぞく) |
石棒(せきぼう) (石刀(せきとう)) |
石斧(せきふ) |
敲石(たたきいし) |
石錘(せきすい) |
特異なものとしては、翡翠(ひすい)製の小玉(直径0.5cm)が1点、滑石製(かっせきせい)の勾玉(まがたま)が1点見つかっています。窮翠の原産地としては、新潟県糸魚川市(いといがわし)の姫川(ひめかわ)などが知られています。そのほか、朱を塗った木製品などもあります。
滑石製の勾玉 |
翡翠の丸玉 |
今回の調査では、縄文時代晩期の集落の様子がさらに良くわかってきました。集落は竪穴住居、土器棺墓、土坑などからなっており、昨年度に調査した竪穴住居群を含めて一つのグループであったと考えられます。 その東側を画するように大溝1215があります。大溝には排水の用途だけではなく、たくさんの不用になった土器や石器が捨てられていたことから、ゴミ捨て場としても利用されていたようです。また、その量の多さから、比較的長い期間にわたり集落が営まれていたことがわかります。
さらに東部にも大溝1067があり、同じように多くの土器や石器が捨てられていたことから、すぐ近くに別の住居群があったと考えられます。
これだけ縄文時代の集落の様子がわかったのは京都市内では初めてのことです。今後さらに遺物などの整理が進めば、縄文時代の生活の様子がより具体的になるものと考えられます。