難波宮跡発掘調査(NW07−2次) 現地説明会

難波宮跡発掘調査(NW07−2次) 現地説明会資料
2007年12月8日(土)
財団法人 大阪市文化財協会

※このページの文、図は、すべて当日配布の現説資料からの転載です。

目次

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はじめに

大阪市教育委員会と(財)大阪市文化財協会は、今年10月上旬から国史跡である難波宮跡(大阪市中央区法円坂)の発掘調査を実施してきました。これは平成19年度の難波宮跡整備事業の一環で実施しているものです。調査では後期難波宮の時期の柱穴が複数見つかりました。区画塀あるいは大規模な建物があったと考えられ、朝堂院の西側に新たに官衙(かんが)(役所)の区画が存在した可能性が高くなりました。また、後期難波宮で使用された重圏文軒瓦(じゅうけんもんのきがわら)なども出土しています。

調査の結果

今回の調査地は史跡難波宮跡内の後期難波宮朝堂院の西外郭築地の西側で、五間門をもつ区画(五間門区画)の南端から15m程南側にあたります(図1)。これまでの調査では五間門区画の南端から15m南側に、同区画の東面1本柱塀を南に延長したラインを東端として、西に延びる3つの柱穴が見つかっています。今回の調査はその西側で、柱列の続きを確認するために実施しました。

調査地は旧陸軍第八連隊や旧整肢学園の建物などにより大きく撹乱を受けていましたが、近現代の地層の下には豊臣期から江戸時代後期にかけての複数の整地層が堆積しており、江戸時代中・後期の大量の陶磁器を伴うゴミ穴などの遺構が数多く見つかりました。また、調査区中央部には大きな落込みがあり、そこには豊臣期前後の地層が厚く堆積していました。それよりも古い時代の地層は削平されたようで、地山の上面では後期難波宮期や古墳時代のものとみられる柱穴や溝が見つかりましたが、それらの遺構は深く掘り込まれていたために、下部が削平されるのを免れたものであると考えられます。

地山の上面では後期難波宮の柱穴が計7つ見つかりました(図2)。そのうち4つは、これまでの調査で発見されていた柱列の延長上にあり、少なくとも7つの柱穴が東西方向に並ぶことが分かりました。それらの4つの柱穴は一辺が97〜105cmの方形で、検出面からの深さは残りの良いもので6000程度あります。東端とその西隣の柱穴では直径20〜25cmの柱痕跡(はしらこんせき)が確認され、柱間距離は約2.5mありました。一方、これらの柱列(以下、「北柱列」)の南側約5mのところには3つの柱穴が新たに見つかり、北柱列と平行する東西方向の柱列(以下、「南柱列」)がもう一列存在することが確認されました。南柱列の柱穴は一辺が115cm前後の方形で、そのうち柱痕跡が確認されたのは中央の1つだけですが、柱間距離は2.5mと5.0m程度と推定されます。5.0mの柱間には本来、もう1つ柱穴が存在していたとみられますが、豊臣期前後に削平された場所にあたり、確認することができませんでした。

遺構の性格

これらの柱穴がどういった施設のものであるかについては、まず五間門区画の南側に同様の区画が存在し、北柱列がその北面の1本柱塀のものであるとする考え方があります。その場合、南柱列は区画内に存在する建物など別遺構のものとなります。こうした考え方は区画の存在を前提としており、北柱列の東端が五間門区画の東面1本柱塀を南に延長したライン上に位置すること、南東約30mの場所で行われた昨年の調査ではそのライン上で築地塀(ついじべい)の存在をうかがわせる南北方向の地山の高まりを検出したこと(図3)、また南柱列と北柱列では柱穴の規模に若干の差異が見られることなどを根拠として挙げることができます。

一方、二つ目の考え方は南北柱列が一つの建物として組み合い、梁行2間、桁行7間以上の東西棟の建物が存在したとするもので、両柱列が平行し、柱間距離も等しいという柱穴群の平面配置を根拠としています。南柱列の東側で行われた調査では、撹乱で柱穴の有無を確認できませんでしたが、この考え方では建物の北壁が区画の一部を構成するか、あるいは区画そのものが存在しないこととなります。

これまで五間門区画の南側の地域は調査例が少なく実態が不明でしたが、区画の有無はともかく、南柱列が見つかったことで、新たに建物が存在した可能性が出てきました。そうした建物の性格を考える上で一つの参考となるのが1993年に現独立行政法人大阪医療センター内で行われた調査(NW93−4・12次)の成果です。今回の調査地の西方約100mにあたり、五間門区画の南側にもう一つ区画があるとすれば、同調査地もその区画内に位置すると考えられます。同調査では後期難波宮期と推測される梁行2間の側柱建物と、桁行3間以上で梁行2間の総柱の掘立柱建物が見つかりました(図1)。総柱建物は床面に重量がかかる倉などに用いられた建築様式と考えられていることから、特別な性格をもつ空間であったとみられる五間門区画とは異なり、その南側には実用的な建物群が配置されていたと推測されます。

現在、大阪医療センター内では新たに発掘調査が行われており、今後、本調査地周辺の調査の進展とともに、2列の柱列の関係や、配置された施設の性格が解明されていくものと期待されます。

【用語解説】

難波宮

昭和二十九(1954)年から始まった発掘調査によって明らかとなった、上町台地北端(中央区法円坂一帯)に位置する、飛鳥時代と奈良時代の二時期の宮殿跡。飛鳥時代の宮殿跡を「前期難波宮」、奈良時代の宮殿跡を「後期難波宮」と呼んでいる。前期難波宮は大化改新の後、白雉(びゃくち)元(650)年から造営が始められた孝徳天皇の難波長柄豊碕宮(なにわながらとよさきのみや)と考えられ、後期難波宮は聖武天皇によって神亀三(726)年から築造された宮殿にあたる。

前期難波宮は、宮殿中心部の左右に八角形の楼閣建築がそびえたつこと、政務や国家の重要な儀式などを行う場である朝堂院に14棟以上の建物が配置されるなど、他の宮殿にはみられない特徴をもっており、後に続く藤原宮や平城宮などの宮殿のスタートとなる国内最初の本格的な宮殿として注目される。

一方、後期難波宮は聖武天皇の天平十六(744)年に一時、都となるが、翌年には平城宮へ遷都され、副都として機能した。延暦三(784)年に長岡京造営が始まると、中心部の建物は瓦や基壇とともに長岡宮へ移築され、この頃に難波宮は廃絶する。

五間門区画

後期難波宮の宮殿の中心部である朝堂院の西側にある、南北196mの大規模な区画である。2.7m間隔の掘立柱塀に区画されており、東面には正面が6本の柱によって5間に仕切られた「五間門」が2個所に設置されている。他の時代の宮殿では、朝堂院の周辺部は官衛(官庁施設)が配されているのが一般的であるが、五間門は内裏や朝堂院など極めて重要な個所に設置されているのが普通である。宮廷の儀式や宴会を行う施設や皇太子・上皇などの皇族が生活する御在所、外国からの使節を迎える迎賓館など、特別な性格を有する区画であった可能性が高いと考えられている。

図1 後期難波宮の遺構配置と今回の調査地位置図

図1 後期難波宮の遺構配置と今回の調査地位置図

図2 今回の調査で検出した後期難波宮の柱穴平面図

図2 今回の調査で検出した後期難波宮の柱穴平面図

図3 後期難波宮五間門区画と調査地周辺の遺構配置図

図2 今回の調査で検出した後期難波宮の柱穴平面図