宇治川護岸遺跡(太閤堤)の延長部発掘成果 現地説明会資料
2007年12月22日(土)
宇治市歴史資料館
※このページの文、図は、すべて当日配布の現説資料からの転載です。
調査場所 | 宇治市菟道丸山地内 |
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発掘機関 | 宇治市歴史資料館 TEL0774-39-9260 |
発掘理由 | 護岸遺跡の延長部確認 |
発掘協力 | 睦備建設株式会社、京阪電鉄不動産株式会社 |
調査期間 | 平成19年11月26日開始〜平成20年2月終了予定 |
発掘面積 | 現況250m2(幅約8m X 長約30m) |
発掘深度 | 0.5〜2.2m |
検出遺構 | 護岸遺跡延長部30m |
出土品 | 中近世土器・瓦など整理箱10箱。 |
京阪宇治駅西側一帯に計画れた土地区画整理事業に伴い、文化財保護法に基づいて弥生時代から古墳時代にかけての集落遺跡である乙方遺跡の発掘調査を実施している中で、宇治川寄りの調査区から今まで存在がわからなかった大規模な石積み護岸が発見され、豊臣秀吉が文禄三年(1594)から造営を開始したいわゆる「太閤堤」に関係する治水遺跡であることがわかりました。この時代は、わが国の本格的河川治水の開始期とされ、秀吉が諸大名に命じて行った大工事の迫力ある具体像が、当時の状態を留め発見されたことは、各方面から驚きをもって高く評価されました。
今回の発掘調査は、この南北に続く護岸遺跡の南側延長部の内容確認を目的としたもので、既発掘地の南60mに発掘地を設け実施しています。
今回発見された護岸遺跡延長部分は、検出全長釣30、幅約3mほどで、地表下50cmほどのところで上面を見つけることができました。また発掘部の中央では水流をはね返す石出(いしだし、石刎とも。このような施設は現代では水制という)も新たに一基発見できました。石出2とします。遺跡の上面は耕作などで削られている部分もありますが、全体として良く保存されています。
今回部分での護岸の形式は、既発見部と全く違うもので「杭止護岸」と仮称することにしました。基本的な構造は、護岸面に直径6cm、長さ1.8mほどの杭を細状に密に打ち並べ、裏側に水流に対抗する割石を充填し、杭が石の重みで前倒れしないように、杭の上端を厚板の横木(幅14cm、長1.5〜4m、厚6cn)と支え柱(直径25cm)で押さえるものです。支え柱の根元にも足固めの杭があります。池や小河川等では「しがら」として杭列護岸を用いることはありますが、このような構造の大規模護岸事例は知りません。また大阪府の狭山池では、江戸期に木組みと杭によって護岸補強をしている事例が知られますが、このような工法と系譜的に繋がる可能性もあります。
石出は大半が調査地外に続きます。検出範囲では、根元幅で約8m、検出長2mほどで、側面を傾斜のある右積とし、内部に割石を充填しており、前回見つかったものと基本的に同構造でほぼ同規模と考えられます。使用石材も同じ粘板岩の割石です。上流側(南)には水流に対抗するため、捨石が多量に投入されています。なお、前回発見の石出1との間は約100mです。
護岸は宇治川の洪水砂層によって埋没し、その使命を終えています。この洪水層の上から、近く生産活動をしていた近世瓦師の廃瓦投棄穴が掘られ、江戸後半期(18世紀後半)の瓦が多量に見つっているため、このころには土砂で完全に埋没していたことを知ることができます。
今回の延長部の確認発掘は、調査面積自体は広くありませんが、この護岸遺跡を知る上でとても要な知見を得ることができました。
発掘区中ほどに右手川側に向かって突き出す石出がある。手前の割右前面に杭頭を押さえる横木とい支え柱が分かる。護岸の底部はさらに1.5mほど下。有機質保護のため全体を掘り下げていない。
石出1(前回調査)
石出2(今回調査)