平城宮跡東院地区中枢部の調査一平城第423次現地説明会資料

平成20年(2008年)1月19日(土)
独立行政法人国立文化財機構
奈良文化財研究所
都城発掘調査部

※このページの写真、文、図は、すべて当日配布の現説資料からの転載です。

目次

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はじめに

平城宮には、東に張り出し部(南北750m、東西250m)があり、その南半(南北350m)を東院地区と呼んでいる。東院地区には、皇太子の居所である東宮があったと推定されており、『続日本紀』などの文献資料の記述によれば叙位をはじめとした儀式や宴会などに頻繁に利用されていたことが知られる。また神護景雲元年(767)の竣工と記される「東院玉殿」や宝亀年間(770〜780)の記録に見える「楊梅宮」は東院地区にあったと考えられている。

東院地区ではこれまで南辺部および西辺部を中心に発掘調査を実施しており、復原整備された庭園(東院庭園)の他、多くの掘立柱建物が建ち並び、かつ何度も建て替えられていた様子が確認されている。しかし、「東院玉殿」に相当するような東院中枢をなす建物の遺構が確認されておらず、東院地区の性格をより明らかにするためには中枢部分の調査が必要とされた。

まず、本調査区の西側では1998年・2005年に調査を行い、総柱の大型掘立柱建物を時期を違えて重複して検出した。続いて2006年には本調査区の南側(401次)、昨年には本調査区の南東側の調査(421次)を行い、東院を区画する施設や石組溝などを検出した。

このように、本調査区の周辺では大規模な掘立柱建物や石組溝が多く見つかっているが、これらの性格をより明らかにするために、401次調査区の北側に、東西30m、南北45mの調査区を設定した。調査面積は1379mである。調査は昨年の9月25日から開始して、現在も継続中である。

調査の概要

掘立柱建物13棟、石組溝8条、バラス敷などを検出した。遺構は建物の柱穴の重複関係、及び石組溝・バラス敷と建物の柱穴の重複関係などから、大きく5時期にわけられる。

遺構の概要

1期(赤)

建物1と建物2の時期。これらの建物は柱筋がそろうこと、どちらも後述する建物6に柱穴を壊されていることから同時期と考える。

建物1
292・401次調査で一部を確認していた建物SB17840。桁行7間、梁行2間の身舎に南北両面に庇を付ける東西棟建物。柱間寸法は身舎部分は3m(10尺)。南庇の出は2.1m(7尺)。北庇の出は3m。柱掘形は約120cm四方。
建物2
梁行2間、桁行9間以上の南北横線柱建物。調査区より北に延びる。柱間寸法は3m(10尺)。柱掘形は約120cm四方。柱穴間の小穴(直径約40cm)は足場穴と考えられる。抜取穴の一つから奈良時代前半の軒瓦出土。

2期(緑)

石組溝・バラス敷と建物3・4・5の時期。石組溝1が建物3の下を通るものの、石組溝4が建物3の西側を併走していることから、石組溝と建物3は同時期と考えられる。また、建物3の西側にバラスを敷きつめている。

建物3
梁行2間以上・桁行9間の総柱建物。東は調査区外に延びる可能性がある。柱間寸法は約3m(10尺)だが、最も南の柱間のみ2.4m(8尺)と狭い。柱掘形は約120cm四方。抜取穴の一つに凝灰岩切石が入っている。
建物4
建物3の北方にある梁行3間以上の建物。建物3と柱筋をそろえて2間分離れる。柱間寸法は3m(10尺)。柱掘形は約120cm四方。建物3と柱筋をそろえており、共に東に延びる大型建物の一部であると考えられる。
建物5
調査区東南部で建物3と南北方向の柱筋をそろえる建物。柱間寸法は3m(10尺)。柱掘形は約120cm四方。東は調査区外および401次調査区に延びる。石組溝3と関わる建物か。
石組溝1
調査区南部で検出した東西方向の石組溝。約30mにわたって検出した。東から西へ流れる。石組溝4との連接点から南西に斜行し、その後石組溝2との連接点から真西に流れる。溝幅は約30〜40cm。深さ約15cm。底には一辺20〜30cmの石を主に二列にわたって並べ、間に小石を詰めている。また、側石の外側にその天端の高さに合わせて敷石をもつ。埋土から奈良時代中頃の土器が見つかっている。なお、底石の下に凝灰岩切石が見られ、また側石の一部に凝灰岩を使用していることから、先行する溝があった可能性がある。
石組溝2
調査区南中央部で石組溝1から分岐する南北方向の石組溝。流れは北から南。401次とあわせて約18m検出した。石組溝1と同じ構造であることから同※1一時期の溝と考えられる(後述の石組溝3も同じ構造)。幅は約30cm。深さ15cm。底には一辺20〜30cmの石を一列に敷き、間には小石を詰めている。
石組溝3
調査区南西部で石組溝1と連接する南北方向の石組溝。401次検出分とあわせて約12m検出した。溝幅は約40cm。深さは約15cm。底には一辺20〜30cmの石を二列に並べ、間に小石を詰めている。溝底は、調査区内での傾斜はほぼ水平だが、水は南流するだろう。石組溝1との連接点の側石は、石組溝1と3の両方の側石を兼ねている。建物5の雨落溝として機能したと考えられる。
石組溝4
調査区中央で検出した南北方向の石組溝。5mにわたって検出した。一部に残る側石・底石には凝灰岩が見られる。溝幅は約30cm。深さ約15cm。底には一辺約20cmの石を一列敷き、間に小石を詰めている。北から南に流れ、石組溝1に合流する。石組溝6の合流点以北は素掘溝(溝4)である。建物3の雨落溝として機能した。
石組溝5
調査区の南東部で検出した石組溝で底石のみが残る。石組溝3から西に分岐し、すぐに北へ折れ曲がる。溝幅約25cm。底石は約20cm大のものを一列並べ、間に小石を詰めている。
石組溝6
調査区中央で石組溝4に合流する東西方向の石組溝。約12mにわたり検出。
バラス敷
建物3の西側、後述の建物6の東側で、石組溝1の北部にバラス敷が残る。物外部の舗装と考えられる。南半を中心に二層に分かれることが確認できる。層のバラスは大きめの石(直径5〜10cm)、下層には小さめの石(直径2〜3cm)を敷きつめている。上層は3期の段階で、建物(後述の建物6・7・8)の外について敷き加えたものと見られる。
溝4
調査区の北から流れる南北方向の素掘溝。石組溝4につながる、幅約40cm。
溝8
溝4から分岐し西に流れる東西方向の素掘溝。幅約20cm。
溝9
西に流れる東西方向の素掘溝。溝4につながる。幅20〜40cm。
溝10
調査区北中央部を西に流れる東西方向の素掘溝。溝4から分岐か。幅40〜50cm。

3期(水色)

南北棟建物6の北側柱列が、東西棟建物7の北側柱列とそろうことから、一連の長廊状建物である。同様の構造を持つ石神遺跡を参考にするならば、方形の区画であると考えられ、建物6・7が隣接する地点はその区画の北西隅に当たる。また建物8は区画の北西部に位置する。

建物6
桁行2間、梁行21間(63m)以上の南北棟建物。柱間寸法は3m(10尺)。柱掘形は約120cm四方。二つの西側柱の抜取穴底に礎盤石が見られる。
建物7
梁行2間、桁行5間以上の東西棟建物。柱間寸法は3m(10尺)。柱掘形は約120cm四方。東端は調査区外に延びる。
建物8
梁行2間、桁行5間の南北棟建物。柱間寸法は3m(10尺)。柱掘形は120cm四方。
バラス敷
2期のバラス敷の項を参照。

4期(橙)

検出したのは建物9のみである。

建物9
東西3間以上の建物。四面庇付建物か総柱建物の一部である可能性がある。柱間寸法は3m(10尺)。柱掘形は約120cm四方。

5期(桃)

建物10があり、その東に建物11・12が配置される。南北棟の多い時期である。

建物10
梁行2間、桁行14間以上の南北棟建物。調査区の北に延びる。柱間寸法は3m(10尺)。柱掘形は約120cm四方。床束が北半部に残り、少なくとも北半部は床張りであった。床束穴には根石があり、礎石は抜かれている。床束穴の直径は50〜60cm。南半部の小穴(約40cm四方)は足場穴か。
建物11
梁行2間、桁行15間(45m)以上の南北棟建物。今回北端を確認した。401次調査区よりも南に続く。柱間寸法は3m(10尺)。柱掘形は約120cm四方。柱抜取穴の一つから二彩の破片が出土。
建物12
建物11と柱筋をそろえる南北7間の建物。東方は調査区外に至る。柱間寸法は3m(10尺)。柱掘形は約160cm四方。

その他の遺構

塀1
調査区北西部で5間分検出した。柱間寸法は30cm(10尺)。柱掘形は約60cm四方。調査区より北に延びる。
土坑1
調査区南東部で検出した。南北1m、東西1.4m。奈良時代中頃の土器・奈良時代後半の軒瓦を出土。
土坑2・3
建物10と建物12の間に土坑が並ぶ。2は南北に長い土坑で東西3m、南北14m。3は円形で直径約2.4m。ともに緑釉■(「石」へんに「専」。せん)(サイト管理者)・凝灰岩・軒瓦(奈良時代後半)など出土。
穴1
調査区東北隅で検出した小さな穴で、東西40cm、南北50cm。灯明皿の下に婚銭が納められており、地鎮具の可能性がある遺構。銭110枚以上。現在までに銭文が判明したものは和同開珎である。
石組溝7
調査区東中央部で検出した南北方向の石組溝。側石・底石が残る。底には幅約20cmの石を一列並ぶ。
溝11
調査区西中央部の斜行溝。幅約60cm。
溝12
調査区西南部の東西溝。幅約80cm。
石組溝13
調査区南東部で約3m検出した。底石が残るのみで側石は抜き取られている。一辺30〜40cmの石を並べている。建物8の南雨落溝の可能性がある。

遺構の変遷

隣接する調査区を視野に入れながら、遺構の変遷を考えてみたい。

1期
建物1・2の時期。建物1を中心にして様々な中規模の建物が並ぶ。奈良時代前半。
2期
建物3・4・5及び石組溝・バラス敷の時期。また、401次で検出したSB17805は柱筋がそろうことから同時期とした。建物3・4は調査区の東側に延びる大規模総柱建物になる可能性がある。石組溝を整備し、バラスにより舗装を行う。東院地区が整備された時期といえる。平城遷都(天平17、745)ころに比定。
3期
建物6・7・8およびバラス敷の時期。建物6と柱筋の合う381次検出のSB18760も同時期とした。総柱の大型掘立柱建物(SB18760)の東に、東院中枢部を区画する長廊状建物が築かれ、その中に421次の建物7が位置する。およそ孝謙天皇のころ(749〜758)に比定。
4期
調査区では建物9のみだが、調査区西側には大規模な総柱建物(SB18770、SB17800、SB17810)が南北に連なり、東側では421次で検出した回廊(建物11)が位置する。本調査区は双方の重要建物に挟まれた空閑地であった。およそ称徳天皇のころ(764〜770)に比定。
5期
建部門からの中軸線に沿う東西棟(421次建物16)があり、その西に長大な南北棟が並ぶ。その西には通路があり128次調査で検出した門に通じる。およそ光仁天皇のころ(771〜777)に比定。

おわりに

東院中枢部におけるこれまでの調査と同様に、5時期の変遷を確認した。それぞれの時期において、場所を違えて大規模な建物が造り替えられている。とりわけ重要な点は、奈良時代後半の短い期間に前代の建物をほぼ全面的に改作している点である。また、大規模な総柱建物や石組溝が多いという特徴は、建物外をバラス敷で舗装することとあわせて、内裏をはじめとした宮殿の様相に類似している。今後の調査において、建物配置だけでなく、舗装や排水施設など生活空間全般を検討する上での足がかりを得たこととなる。

2期の建物3・4及び5期の建物12が東に続く可能性があること、421次で4期に掘立柱回廊の南西隅を検出していることなど、各時期にわたって本調査区の一段高い東側に中枢部の主要施設があることが推定できる。特に3期の長廊状建物が、区画の北西部を形成し東に続くということは、まさに東院中枢部の北西隅をとらえたといえるであろう。

遺構平面図(S=1:150)

遺構平面図
凡例

平城第423次調査および周辺の調査成果の遺構変遷図

423次および周辺の調査
1期
1期
2期
2期
3期
3期
4期
4期
5期
5期