元稲荷(もといなり)古墳第4次調査 現地説明会資料

平成20年(2008年)2月16日(土)
財団法人向日市埋蔵文化財センター

※このページの写真、文、図は、すべて当日配布の現説資料からの転載です。

日時平成20(2008)年2月16日(土)
所在地向日市向日町北山65−5、65−6
調査期間平成19年12月10日〜平成20年2月29日(予定)
調査所管向日市教育委員会
調査担当財団法人向日市埋蔵文化財センター

1 はじめに

元稲荷古墳は、古墳時代前期(3世紀後半)に築造された前方後方墳で、乙訓地域のみならず京都盆地北西部において最古型式の古墳の一つとして知られています。前方後方墳は、方墳を2つ連結した平面形の古墳で、2004年の時点で約500基(前方後円墳は約4700基)が確認されています。

これまでに第1次調査(1960(昭和35)年)、第2次調査(1970(昭和45)年)、第3次調査(2007(平成19)年)の3回調査が行われています。第1・2次調査では、後方部の中央で埋葬施設、前方部の中央で特殊器台形埴輪(とくしゅきだいがたはにわ)および壷形埴輪(つぼがたはにわ)片が密集する区画、前方部を中心とする墳丘の調査で外表施設(葺石)が確認されています。昨年行った第3次調査は後方部東側を調査し、(1)これまで十分な調査が行われていなかった後方部墳丘において、東辺および南辺の葺石および基底石を確認し、古墳の平面形態および規模をほぼ確定する資料を得たこと。(2)後方部東辺の茸石は、石材の大きさや配置に他とは異なる特徴があり、また墳端付近の立ち上がりの角度が緩やかであったこと。(3)後方部東辺中央部で、墳裾から墳丘の外側へ広がる磯敷を確認したことなどの成果を得ることができました。

今向の調査は、第3次調査の成果をふまえ、(1)後方部の規模・形態をより明らかにすること、(2)くびれ部東側の位置を確定し、くびれ部幅・形態を明らかにすること、(3)第2次調査のトレンチを再発掘し、第1・2次調査のトレンチと今回のトレンチを合成する定点を得ることの3点を目的として、去る平成19(2007)年12月10日より発掘調査を進めて参りました。

2 周辺の前期古墳

古代の都「長岡京」(784〜794年)の名称の由来となった向日丘陵には、古墳時代前期(3世紀後半〜4世紀後半)の前方後円(方)墳が、元稲荷古墳を含め5基連なるように築造されました。これらを総称して「向日丘陵古墳群」と呼んでいます。

  • 元稲荷古墳(前方後方墳:全長94m)
  • 五塚原(いつかはら)古墳(前方後円墳:全長91.2m)
  • 寺戸大塚古墳(前方後円墳:全長約95m)
  • 妙見山(みょうけんざん)古墳(前方後円墳:全長114m、全壊)
  • 北山古墳(前方後円墳:規模不明、全壊)

以上の中で、元稲荷、五塚原、寺戸大塚の3基は、全長が90〜95mと比較的規模がそろい、また奈良県箸墓(はしはか)古墳の約1/3の規模であることから、それぞれが深い関連を示すとともに、奈良盆地の前期古墳との関係が指摘されています。

3 第4次調査の概要

今回の調査では、くびれ部東側に1箇所(4−1トレンチ)、後方部東辺に2箇所(4−2・3トレンチ)の3箇所にトレンチを設定し調査を行いました。最終的な調査面積は約64m2です。各トレンチの概要は以下の通りです。

4−1トレンチ

  • 後方部南辺東半および前方部東辺の葺石の確認
  • 推定墳裾ラインから墳丘の外側約1〜2mの範囲に、葺石と一連の工程で設置された礫敷(れきじき)を確認
  • 壷形埴輪の出土
  • 第2次調査トレンチの再発掘

4−2トレンチ

  • 墳丘東辺斜面の葺石および基底石(葺石の一番下に置く石)の確認
  • 基底石から墳丘の外側約1mの範囲に礫敷を確認
  • 古墳構築以前の旧地表土と墳丘盛土を確認

4−3トレンチ

  • 墳丘東辺斜面の葺石および基底石の確認
  • 基底石から墳丘の外側約1mの節囲に礫敷を確認
  • 古墳構築以前の旧地表土と墳丘盛土を確認

各トレンチとも葺石はごく一部を確認したのみで、墳裾から約1mの範囲しか残存していませんでした。葺石(径5〜10cm)と4−2・3トレンチで確認した基底石(径15〜20皿)の大きさや裏込めの石材を用いない点、墳丘の立ち上がりが緩やかな点などは、第3次調査の成果を追認することとなりました。またすべてのトレンチで、墳裾付近から墳丘外にかけて、黒色土あるいは赤褐色土を用いて整地した後、葺石・基底石、礫敷を一連の工程で設置した様子を確認しました。

礫敷は4−1トレンチにおいて大変良好な姿で確認することができました。葺石と同様の小振り(径5〜10cm)の礫を用い、平面ではかみ合うように密集して配置されていました。断面では、黒色土の上面から層中にかけて数層礫を積み重ねて構築する様子を確認しました。

出土遺物には、壷形埴輪の底部片の他、弥生土器や歴史時代の須恵器などがあります。壷形埴輪はおもにくびれ部の転落石群の中から出土しました。数十点の破片が出土していますが、いずれも小片で復原することができませんでした。しかしこれまで公表されている元稲荷古墳出土の埴輪とは胎土が異なる特徴が確認できました。

4 まとめ

今回の調査成果は、以下の3点にまとめることができます。

  1. 東側くびれ部において、葺石と墳丘の外側に広がる礫敷を確認した。
  2. 後方部東辺の葺石・基底石を確認し、第3次調査の成果と総合すると後方部の平面形態が台形状であることが確実となった。
  3. 東側くびれ部において、壷形埴輪が出土したこと。
〔1.の点〕
昨年行った第3次調査において、後方部東辺中央付近に礫敷が設置されていたことが判明しましたが、遺存状況があまり良くなかったため礫敷の規模や範囲については確認することができませんでした。しかし今回の成果によって、古墳東側のくびれ部から後方部にかけての広い範囲に設置されていた可能性が高くなりました。またくびれ部では他と比較して大変堅固に構築されており、この付近になんらかの重要な施設(例えば祭祀の空間や儀礼の場など)が存在した可能性が想像されます。しかし古墳からどの範囲まで設置されていたかについては、既存建物のため確認できませんでした。
〔2.の点〕
第3次調査で後方部南東隅の角度が鈍角であったことが判明し、後方部がいびつな方形状を呈する可能性が判明しましたが、北半の様子が確認できなかったため、南東隅と中央部の成果をそのまま延長し、台形状の復原図を提示しました。今回4−2・3トレンチで基底石を確認し、その成果を前回の成果とあわせて検討すると、ほぼ直線上に並ぶことが判明しました。よって後方部の平面形は整った方形ではなく台形状を呈することが確実となりました。最古型式の前方後方墳で基底石や墳形が確認できた調査はごくわずかですが、確認できた兵庫県西求女塚古墳、岡山県備前車塚古墳などでも整った正方形にはならないことが判明しています。不明な点の多い、最古型式の前方後方墳の形の特徴を検討する新たな資料となります。
〔3.の点〕
元稲荷古墳が築造された3世紀後半の段階では、埴輪は墳丘の周囲をめぐるように樹立されていませんでした。元稲荷古墳では、第2次調査で前方部の中央に集中して埴輪が樹立される区画が確認されていますが、以外の状況は不明でした。今回出土した埴輪は前方部以外に埴輪が樹立される区画が存在したことを示しています。その候補には、後方部墳頂、くびれ部中央、くびれ部東の礫敷が考えられます。このうち第1次調査で調査された後方部墳頂では、盗掘墳の埋土から破片が少量出土したと報告されています。堅固に構築された礫敷と埴輪の出土をみると、くびれ部の南東にひろがる礫敷に埴輪が樹立され何らかの祭祀が行われていたとすると、中期以降の古墳にみられる「造り出し」部の原初的形態の施設が元稲荷古墳に設置されたと考えられます。

「造り出し」は墳丘にとりつく方形のマウンド状施設で、上に形象埴輪を並べる例や多量の須恵器が出土する例から、古墳祭祀の場として用いられたと考えられています。前期古墳にも、たとえば中山大塚古墳(奈良県)では、前方部東側に三角形の張出部が存在するなどいくつかの例がありますが、くびれ部近くの前方部に固定して位置するようになるのは中期の古墳以降のことです。

第1図 乙訓地域の主要古墳の分布と編年

古墳分布図
編年表

(福永伸哉 「畿内北部地域における前方後円墳の展開と消滅」
『西日本における前方後円墳消滅過程の比較研究』大阪大学大学院文学部研究科2004年)

第2図 元稲荷古墳墳丘測量図(S=1/600)

元稲荷古墳墳丘測量図

第3図 4−1トレンチ平面図

4−1トレンチ平面図

第4図 4−2トレンチ平面図

4−2トレンチ平面図

第5図 4−3トレンチ平面図

4−3トレンチ平面図

第6図 元稲荷古墳墳丘復元図

元稲荷古墳墳丘復元図

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