平成20年(2008年)2月17日(日)
長岡京市教育委員会
編集 財団法人長岡京市埋蔵文化財センター
※このページの文、図は、すべて当日配布の現説資料からの転載です。
写真はサイト管理者湯川が撮影したものです。
調査名 | 恵解山古墳第8次調査、長岡京跡右京第920次調査 |
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所在地 | 京都府長岡京市勝竜寺1205−2他 |
遺跡名 | 恵解山古墳、長岡京跡、南栗ヶ塚遺跡 |
調査主体 | 長岡京市教育委員会 |
調査機関 | 財団法人 長岡京市埋蔵文化財センター |
調査期間 | 平成19(2007)年10月30日〜平成20(2008)年2月下旬 |
調査面積 | 272.03m2 |
当古墳は、標高約15mの平野部に築かれた古墳です。所在地は、JR長岡京駅の南約1k皿で、古墳の西には北東一南西方向にJR東海道本線があり、東では、小畑川と犬川が合流しています。
当調査は、恵解山古墳の規模や形態、構造など、史跡復元、整備に必要なデータを得る目的で実施している継続調査の一つです。今回は、恵解山古墳の調査としては、第8回目の調査になります。調査区は「8−1調査区」から「8−7調査区」の7箇所に設けました(第2図)。それぞれの調査面積は、8−1調査区が38.22m2、8−2調査区が65.82m2、8−3調査区が63.01m2、8−4調査区が13.92m2、8−5調査区が8.42m2、8−6調査区が65.74m2、8−7調査区が16.90m2で、合計約272.03m2になりました。
第1図 恵解山古墳の位置(l/5000)
第2図 恵解山古墳の調査地位置図(l/1000)
当調査区は、近・現代の掘削が全面に及んでおり、古墳盛土の一部が残存する程度でした(第3図)。調査区南西部は、現表土下に薄い近現代遺物を包含するシルト堆積があり、その下は段丘礫地山層と考えられる青灰色系の硬く締まった無遺物礫層でした。南西部中央には、農業用の井戸と思われる直径約2mの円形掘り込みSKllが検出できました。埋土から、染付茶碗などが出土しました。墳丘側では、青灰色系の礫層上に、古墳築造前の旧表土と思われる黒色系の硬く締まった粘土層が乗り、その上に古墳盛土と考えられる白色系の締まった土層堆積が数層見られました。古墳盛土と考えられるこれらの堆積は、墳丘側の立ち上がる傾斜崖面に向かって入り込んでいきます。崖面裾には、染付陶磁器などを包含する溝が掘られており、北東隅は深い掘り込みになっていました。この掘り込みは、現代まで窪んだ状態で、そこを大量の礫で埋め尽くしていました。現地表面にまで達するこの礫堆積には、人頭大のものから拳大のものを含んでいましたが、ほとんどは直径10皿前後の礫でした。礫の間は空洞で、土や砂が挟まれていませんでした。当調査区の墳丘側南部は、はぼ水平な面にまで削平を受けた古墳盛土と考えられる土層の上に、竹薮客土が厚く盛られていました。この竹薮客土内には、人頭大から、それよりやや小振りな礫がまとまっている部分も見られましたが、竹薮客土の土留め目的の施設と思われます。
古墳に関係する遺物には、埴輪片と竪穴式石室に用いられたと考えられる結晶片岩破片があります。埴輪の破片は各層から出土しましたが、大きな破片は、主に調査区北西の窪みに埋め立てられた礫層と、調査区南東部の竹薮客土からでした。埴輪には、円筒の他、蓋形などの形象埴輪も含まれています。また、窪みを埋め尽くした礫や竹薮客土から出土した礫は、本来当古墳の茸石に用いられていたものと思われます。
古墳に関係する遺物には、埴輪片と竪穴式石室に用いられたと考えられる結晶片岩破片があります。埴輪の破片は各層から出土しましたが、大きな破片は、主に調査区北西の窪みに埋め立てられた礫層と、調査区南東部の竹薮客土からでした。埴輪には、円筒の他、蓋形などの形象埴輪も含まれています。また、窪みを埋め尽くした礫や竹薮客土から出土した礫は、本来当古墳の茸石に用いられていたものと思われます。
第3図 8−1調査区平面図(l/100)
蓋形埴輪 |
円筒埴輪 |
靫形埴輪 |
結晶片岩 |
短甲形埴輪 |
当調査区では、北半部で、予想通りの見事な第3傾斜面茸石を検出しました(第4・5図)。南半部は、茸石が大きく損失していました。しかし、傾斜面はほぼ構築当時の姿と考えられます。葺石損失部分に使用されていた礫が、当調査区の西裾に設けた8−1調査区に集められていたと思われます。残存葺石の上には、茸石崩落礫層とそれを覆う土層堆積がありました。この両層からは、埴輪の出土量が多く、円筒埴輪や蓋形・盾形などの形象埴輪も出土しました。また、竪穴式石室石材と考えられる結晶片岩の破片も十数点出土しました。前方部側葺石面傾斜角は、約26度になっていました。
葺石は第3次調査と同じで、くびれ部に40cm前後の大きな礫を用いて列をなし、他の傾斜面に築かれた葺石面より突出しています。他にも、上下方向に階段状に1列に並ぶ部分や、およそ水平方向に並んで見える配石状況が観察できます。
葺石に使われている石は、はとんどが小泉川から運ばれてきたと考えられています。石材や構築状況は、第3次調査で見られた葺石の状況と変わらないと考えられています。
また、茸石基底石が前方部側で検出できたことは、新たな成果です。今回、第3傾斜面茸石基底石の位置を検出できたことは、第5次調査検出の第2段テラスに樹立していた埴輪列とともに、前方部西側の中間段復元に、不可欠です。
第4図 8−2調査区全景(北から)
第5図 第3次調査、8−2調査区調査との配置関係図(1/100)
当調査区では、前方部東側の第2テラスに樹立する埴輪列を検出しました(第6図)。埴輸は、直線に掘られた素掘溝に、約35cmの埴輸芯心間隔で9本が整然と立て並べてありました。
当調査区では、埴輪列の東にあるはずの第2傾斜面以下の構造は、後世の大きな開削によって完全に失われていました。樹立埴輪は黄色系の土層で覆われていましたが、この層には、破砕した埴輪片が包含されていました。その上には、拳大からややそれより大きめの礫層が被覆していました。礫層内には、近世の土器や火葬骨が少量包含されており、江戸時代の堆積と考えられます。本来この礫層は、第3傾斜面に構築された葺石と考えられます。さらに上には、灰黄色から白色系の斑紋をなす硬い締まりの粘土層が南西部に厚く堆積していました。この土層は、古墳盛土起源と考えられ、後世に撹拌を受けた形跡が希薄なことから、地滑りなどにより一気に埋まった可能性があります。この堆積は、7−2調査区でも観察されています。この土層堆積により北に大きく傾斜する状況が生まれましたが、その傾斜面から北の低まり部分に、黒色土が堆積していました。この土層は、北端で厚さ40cmを越え、炭や火葬骨細片が多く含まれていました。また近世の土師器皿や寛永通宝の六道銭なども包含していて、江戸時代の墓地整地土層と考えられます。7−2調査区では、古墳盛土起源の堆積層下に、多くの近世土葬墓が検出されていて、光林寺(右京第207次調査)の調査での土層墓から火葬墓への変遷過程との関連が思い起こされます。これより上の堆積は、近現代の墓地造成盛土が大きく2層見られます。
第6図 8−3調査区平面図(1/100)
第7図 7−2・3調査区と8−3・4調査区配置図(東から)
埴輪列は、全て第1段突帯からやや上までの残存状況でした。埴輪樹立に際し、幅約50cm、深さ約16cmの溝を掘り、各埴輪樹立に適した掘り足しや埋め戻しを行い、第1段突帯の深さまで埋め込んで、ほぼ等間隔に整然と立て並べられていました。この埴輪樹立溝内の埋土には、遺物は全く含まれていません。埴輸内の土層は、底から約10cm前後埋め戻して安定させていました。この層にも、埴輸片などの遺物は全く含まれていませんでした。樹立埴輪の中に埋められていた層より上の堆積は、各埴輸の上部が壊れていく過程で自然に堆積したもので、各埴輪の上部破片が落ち込んでいるものが多くありました。中には、別個体埴輪の底部片が入り込んでいるものも見られました。おそらく、もう1段上の埴輪が倒壊して、偶然に入り込んだものと思われます。また、拳大以上の礫が落ち込み、その石が内側から強い力で押したため、部分的に割れて外に押し出されているものや、上から礫が被さり、上部を破壊しているものなどもありました。樹立埴輪の外面調整には、タテハケ調整で仕上げたものが1個体あるほか、他は全てタテハケ後にヨコハケ調整する手法のものでした。タテハケの埴輪は、他の埴輪に比べてやや細身で、その分、他の埴輪間の間隔距離が広くなっています。ヨコハケのある埴輪が多いことから、これを普通円筒埴輪と考え、タテハケ仕上げの細身の埴輪は、朝顔形埴輪の可能性があると考えられています。今回検出した埴輪列の範囲内では、樹立に際して、透かし孔の方向に配置法則は認められませんでした。また、調査区西半部に残存する古墳盛土内からは、弥生時代後期の土器の小片が僅かながら出土しました。
埴輪列を検出した第2段テラス面より東は、近世以後の削平が、推定周壕底標高まで及んでいて、多くの調査区で検出されている古墳構築時の表土と考えられる黒色土をも削平され段丘礫と考えられる青灰色系の礫層を、近現代耕作土の黄褐色系シルト層が覆っていました。この層からは、盾形埴輪などが出土しました。その上には、古墳盛土起源と考えられる硬く締まった白色系の粘土層が厚く堆積していました。この層には、平安、鎌倉、室町時代の土器類に混じり、円筒や形象の埴輪片や鉄製品が包含されていました。鉄製品には、剣や鎌の他、鉄斧などもあります。鉄剣には、鞘に収められていた状況を示す木質が付着しています。これらの鉄剣や鉄鏃は、第3次調査(昭和55年度実施)の鉄製品埋納施設から出土した刀剣類に類似し、保存状態も似ていること、また出土層が古墳盛土起源の土層と考えられることから、本来は当古墳に埋納されていたものと考えられます。但し、埋納位置は、第3次調査検出の埋納施設であった可能性を完全には否定できませんが、鉄斧のような工具が含まれていることから、それとは別の埋納施設があつたという見方も捨てきれません。また、墳丘上の祭祀と見ることもできますが、出土量が多く、数個体でおさまらないことや、第3次調査で検出された鉄製品埋納施設にはなかった工具類が含まれていることなどから、墳丘上祭祀関連とは考えにくいと思われます。この層を掘り込んで、No.5埴輪だけ外面タテハケ手法になっています。ヨコハケ調整埴輪には、第1次タテハケが底近く以外ほとんど見られないものと、ヨコハケが粗く、部分的にタテハケが残るものがあります。
銭貨 | 鉄斧/鉄鋤先 |
第1段突帯までの高さは、No.1は約15.5cm、No.2は約15cm、No.3は約17cm、No.4は約15cm、No.5は約13cm、No.6は約15.5cm、No.7は約16cm、No.8は約15cm、No.9は約15cmです。
調査区東端に近現代の水田耕作にからむ用水用の素掘り溝SD09があります。この藩内堆積の最下層には砂があり、埋土には染付磁器などが包含されていました。この層より上には、締まりなく崩れやすい白色系の粘土層が堆積していました。この層も、本来は古墳盛土起源と考えられます。
第8図 樹立埴輪拓影図(1/4)
当調査区では、今までの調査で明らかになった西造り出しの対象位置に、東側の造り出しがあるかどうかを探る目的があり、東造り出し南辺想定位置に調査区を設定しました(第9図)。
調査区内の土層は、厚い盛土下に水田耕土があり、耕土は段丘礫と考えられる礫層を覆っていました。この礫層は、調査区南部で北東一南西方向に肩を持って南に僅かに傾斜していました。南へのこの傾斜部分には、古墳周壕内最下層に類似する黒色粘土が薄く堆積していました。この層の上面には、長岡から平安時代頃の遺物が出土し、黒色粘土層内には埴輪片が包含されていました。南へのわずかな傾斜(落ち込み)の方向や位置は、東造り出し想定に沿うものです。しかし、5−1調査区や6−1調査区で検出された西造り出しのように葺石やその崩落石と考えられる礫群は見られませんでした。当調査区で検出した落ち込みの最も深いところで、標高約14.98m、落ち込みより北の最も高いところで、標高約15.30mでした。これと対象位置に当たる5−1調査区では、墳丘裾葺石基底石の標高は約15.05mでした。この比較と、当調査区検出の僅かな傾斜に葺石が伴っていない点を重視すれば、東造り出しに関係する傾斜でない可能性もあります。従って、今回の調査成果をもって、東造り出しの有無を結論付けることはできませんでした。
当調査区では、他に、落ち込みの肩付近から傾斜部にかけての位置で、直径約1.7mの円形土坑SK12を検出しました。埋土は上層の薄い砂礫と、下層の厚い黒色粘土に分けられ、下層から弥生時代後期の土器が出土しました。
第9図 8−4調査区平面図(1/100)
当調査区では、北西一南東方向に肩を持つ北東方向への落ち込みを検出しました(第10図)。傾斜面には、段丘礫と考えられる青灰色系の礫層上に拳大の礫が散乱していました。このような状況は、4次調査4−1調査区南端の周壕南端部検出状況によく似ています。今回検出した周壕南西隅の落ち込み状況と、4−1調査区の成果との比較から、周壕の南西隅が綬やかな弧を描いていた可能性が指摘できます。とはいえ、今回の8−4調査区は狭小な調査区であるため、確定はできません。周壕内埋土は、黄褐色系の上層と、黒色系の下層に区分できます。但し、両層からは長岡京期から平安時代頃の土器が出土し、明確な堆積時期差を考えにくい状況です。また、傾斜面礫散乱部分では、礫堆積を覆う砂礫層から、平安時代頃の土器類が出土しました。
第10図 8ー5調査区平面図(1/100)
当調査区は、第7次調査7−5調査区同様に、広い範囲にわたって平安時代の砂礫層堆積を再確認しました(第11図)。この砂礫堆積は、洪水時などの流水堆積と考えられ、周壕西辺のあたりに固有な土層堆積です。また、周壕西辺のあり方も、大阪層群と考えられる黄色から白色系粘土層が基盤層になっており、7−5調査区の基盤層と変わりません。西から緩やかに傾斜して周壕となる傾斜面には、葺石崩落石のような礫群は見られませんでした。このあり方も、前方部側の周壕南辺に見られる状況と、甚だしく異なります。当調査区西端部には、現代の他による掘削深度が深く、大きく削平されていました。他の東辺には杭と矢板による護岸用土留めが構築されていました。このように、周壕の西肩検出位置より西側の状況は捉えきれませんでした。前方部側の周壕南辺に見られた礫の散乱状況がここで見られないのは、長岡京期や平安時代の砂礫堆積に起因する流水により、完全に損失してしまったのか、あるいは、本来の周壕西肩がさらに西にまで広がるのか、または南辺で見られる礫の散乱状況が人工的なものでなく、段丘礫からの崩落であるのか、今回の調査でも結論付けることができませんでした。当調査区出土遺物には、平安時代前後の土器以外に、砂礫層を掘り込む土層に鎌倉時代の土器類が包含されていたほか、各層から埴輪の細片が出土しました。
第11図 8−6調査区平面図(1/100)
当調査区では、後円部裾をほぼ推定位置から検出できました(第12図)。調査区内での後円部裾は、段丘礫と考えられる青灰色系の礫層を掘削して第1段傾斜面を築き、その礫層面に直接、葺石を構築しています。茸石は、幅約1mの範囲で検出しました。茸石に用いられた石の大きさは、15〜2000前後のものが多いようです。明確に元位置を止める基底石はありませんでした。しかし、30〜40cm前後の礫が傾斜面からやや周壕側に入り込んだ位置に不規則に散乱している様相がうかがえ、これらの一回り大きい礫が、基底石として用いられていた可能性が大きいと考えられます。本来、傾斜面の裾に並べ置かれていたものが、周壕側に滑り込んだものと思われます。
周壕内堆積は、葺石を覆う葺石崩落礫層と、その上に薄い黒色系粘土層堆積があり、さらに上には黄褐色系の粘質土が堆積していました。これら各層からは、埴輪片が少量出土し、周壕埋土上層からは、10cm程度の比較的大きな円筒埴輪被片が見られました。また、崩落礫層を覆う粘土層より上からは、平安時代前後から鎌倉時代にかけての土器類も包含されていました。黒色系粘土層からは、木片なども出土しましたが、加工品と明確に分かるものはありません。このような周壕内堆積は、周壕西辺部の7−5調査区や8−6調査区を除く周壕部調査の状況と矛盾なく、共通しています。
調査区東端の後円部墳丘側では、白色系と黄灰色系の墳丘盛土と考えられる土層の一部を検出しました。他の調査区の墳丘側では、黒褐色系の粘土層が墳丘盛土下面にあることが知られています。この墳丘盛土下の土層は、古墳構築時の表土層と考えられています。今回の調査でも、8−1調査区と8−3調査区において、従来の考えに沿う状態であることがわかりました。しかし、当調査区では、墳丘盛土と考えられる土層の下は、周壕底面から茸石構築傾斜面を構成する青灰色系の礫層が基盤となっていました。この違いは、古墳構築時の旧地形が、後円部側に高く、前方部側に低かったことに起因するものと思われます。 なお、後円部墳丘側の傾斜面中位に、後円部の円弧に沿うように掘られた溝を1条検出したが、層位関係から古墳より新しい時期のものと考えられます。
第12図 8−7調査区平面図(l/100)
今回の恵解山古墳第8次調査では、先年度までの調査成果も含めて、総体としてみた場合、2つの大きな項目をあげることができます。
第1に、前方部第2テラス面と第3傾斜面を具体的に復元想定することができる有力な根拠を得ることができました。その根拠とは、鉄製武器類を主とした埋納施設の中軸線を古墳の中軸線とした場合、以下の3点で、合理的整合性が見出せることです。つまり1点目は、今回の8−3調査区で検出した前方部東側第2段テラスの埴輪列は、第5次調査5−1調査区の前方部西側第2段テラス面埴輪列と対称位置にあること。2点目は、8−2調査区で検出した前方部西側第3傾斜面の茸石基底石位置と、第7次調査検出の前方部第3傾斜面葺石基底石が対称位置にあること。3点目は、第6次調査の6−1調査区で検出された西側墳丘裾のくびれ部位置と、第3次調査検出の西側第3傾斜面茸石くびれ部列石を結ぶ直線上に、今回の8−2調査区で検出した第3傾斜面茸石のくびれ部列石が見事に重なること。この成果は、史跡公園の整備における墳丘形態復元に、大いに寄与するものと思われます。また、他の前方後円墳の形態比較も、より確かな根拠をもって検討できます。
第2に、昭和55年に発見された武器類を主とする埋納施設とは別に、工具類なども納めた別個の埋納施設が前方部側のどこかにあった可能性がでてきました。武器類を主とする埋納施設と工具類を主とする埋納施設を別に設けた例は、藤井寺市西墓山古墳などにもあります。
第13図 出土遺物
蓋形埴輪 |
円筒埴輪 |
靫形埴輪 |
結晶片岩 |
短甲形埴輪 |
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